• 2018年7月8日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年7月8日第二主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【民数記13章および14章1節~9節】 (旧約p.231上段右側)
    13:1 主はモーセに告げて仰せられた。
    13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
    13:3 モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。
    13:4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。
    13:5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。
    13:6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。
    13:7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。
    13:8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。
    13:9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。
    13:10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。
    13:11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。
    13:12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。
    13:13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。
    13:14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。
    13:15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。
    13:16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。
    13:17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、
    13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。
    13:19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。
    13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。
    13:21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。
    13:22 彼らは上って行ってネゲブにはいり、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。
    13:23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。
    13:24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。
    13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
    13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
    13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
    13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
    13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
    13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
    13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
    13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
    13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

    14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
    14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
    14:3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
    14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
    14:5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。
    14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、
    14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
    14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
    14:9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

    ◎メッセージの概要【ヨシュアとカレブの告白】
    《先々週は、イエス様が言われた「私の言葉」について考えて見ました。創造主なる神様はこの世界を、「光よ。あれ。」と、言葉によって創造されました。
     またヨハネは、『初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方は、初めに神と共におられた。すべてのものは、この方によって造られた。』と書いています。
     イエス様は、「私が語った言葉は、父が語った言葉をそのまま語っているのです。」とも言われました。言葉とは、その人の思いを伝えるものです。またその人が、何を信じているのかも、言葉から分かることになるのです。
     今日は、ヨハネの福音書から離れて、民数記から「言葉」すなわち「告白」について学びたいと思います。
     神様はモーセに命じて、カナンの地に十二部族のリーダーを偵察に差し向けます。族長と言いましても、やがてその部族の族長あるいは指導者となるであろう屈強なる戦士である若者が選ばれます。
     なぜなら真の族長は、すでに年を経ていて、斥候の仕事には不向きであり足手まといになってしまうからです。
     その十二人の中に、エフライム部族ヌンの子ホセアとユダ部族エフネの子カレブがいました。モーセは、この時ホセア(救い)にヨシュア(主は救い)と言う名前を与えます。つまり、この偵察隊のリーダーに指名したと言うことです。そしておそらくカレブがサブリーダーではなかったかと思います。
     さて、彼らは四十日、神様が約束されたカナンの地を巡り歩き、そこで取れた果物を持って戻って来ます。そしてモーセとアロンに報告します。
     しかし十人の者たちは、悪く言いふらすのです。特にアナク人、ネフィリム人と言う巨人の存在が彼らに重くのしかかったからです。
     全会衆とは成人した男子のことです。彼らはこのことを聞いて、モーセとアロンにつぶやきます。
    「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」
     この言葉(告白)の通りに、彼らは全員荒野で死ぬことになります。
     その時、ヨシュアとカレブはイスラエルの会衆に告白します。
    「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
     ここにヨシュアとカレブの主に対する信仰をはっきりと見ることになります。それは彼らの言葉、すなわち告白がそれを証明しているからです。
     イエス様は、このように教えられました。
    「私はあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだな言葉について、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、罪に定められるのも、あなたの言葉によるのです。」
     これはパリサイ人や律法学者たちに向けて語られていますが、すべての人に向けて語られています。
     私たちが告白するその言葉によって、最後の白い御座の裁きの座において裁かれることになると言われるのです。
     またイエス様はこのようにも教えられました。
    「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」
     ここに大切な真理があります。それは良い人も、悪い人も、良い倉と悪い倉の両方を持っていることなのです。なぜなら皆が罪人だからです。良い人であっても、悪い倉から悪い言葉を出すことを選べるのです。またその反対に悪い人であっても、悪い倉ではなく良い倉から良い物を出すことも出来るのです。
     しかし心に何が満ちているのかが問題となります。結局、どんなに良い言葉を出したとしても、その言葉に心が伴なわなければ、その人が何を考えているのかは伝わるのです。なぜなら私たちは霊的存在だからです。
     さて、私たちが何を信じているのかが問われることになります。ヨシュアとカレブの告白から、このふたりが神様を信じ、信頼していることがはっきりと見て取れます。しかし残りの十人は、その反対であることは明らかです。
     この時にも、昼は雲の柱があり夜は火の柱があって、またマナは安息日以外には、毎日与えられているのです。神様の守りと奇蹟は行なわれれているのです。それにも関わらず、全会衆は、ヨシュアとカレブの告白よりも、残りの十人の告白を選び、信じたのです。
     パウロは言います。
    『では、どう言っていますか。
    「み言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰の言葉のことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」』
     私たちクリスチャンも、日々何を告白するのか、また言葉に出して発するべきなのかが問われています。つまり何を信じているのか、誰を信じているのかが問われているのです。
    「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
     これは真理です。心に満ちている物だけが、口から出て来るからです。
     そして、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」と言うことは、私たちには主イエス様が与えられています。イエス様を信じ信頼する者は、失望することもなく、失望させられることもなく、別訳『これを信じる者はあわてることがない(イザヤ28:16)』のです。
     私たちはクリスチャンです。十字架がシンボルです。十字架は+です。
    よって私たちは肯定的、積極的な言葉を用いるべきです。そしてその土台は、み言葉であり、主イエス様への信頼であり、神様への信仰なのです。》

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