◇◆◇日々のみ言葉
2018年7月9日(月)
◎聖書箇所【ルカの福音書24章3節】
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
◎ショートメッセージ
《ルカは、女たちが墓の中に入って見ると、主イエス様のからだはなかった、と簡単に書いていますが、それだと少々誤解が生じる可能性があります。
それだからこそ、使徒ヨハネは、三つの共観福音書を手元に置き、第四福音書を執筆したのです。紀元65年までには、すでに三つの共観福音書の写本が広まっていたと考えられます。なぜなら紀元70年のエルサレム滅亡の預言が、ルカの福音書にはすでに書き記されていたからです。
それからさらに20・30年後に、エペソ教会の長老であり、十二使徒最後の生き残りの使徒ヨハネが、福音書を執筆したと言うわけです。
ヨハネの福音書によりますと、
『さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子との所に来て、言った。
「誰かが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりは一緒に走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(ヨハネの福音書20:1~20:8)』と書かれています。
カトリック教会礼拝堂に掲げられている十字架には、イエス様がはりつけられています。本来はこれが本物の十字架であると私は思っています。
プロテスタント教会では、イエス様が復活された後の十字架であるとして、十字架だけがシンボルとなっています。もちろんそれも一理あることでしょう。
さて、イエス様は本来は、一糸まとわない状態で十字架にかけられました。そしてアリマタヤのヨセフとニコデモは、イエス様の御からだを亜麻布で包んだのです。
またこのヨハネの記述から、イエス様の体と顔に分けて、少なくとも二枚の布が用いられたことがわかります。
さて、ヨハネは何を見て「イエス様の復活」を信じたのでしょうか。それは、亜麻布だけが、埋葬された時と同じように残されていたことです。つまりイエス様の御からだだけが、そっくりそのまま消えてしまったということです。
ここで大切な真理が分かります。それは、ペテロもヨハネもイエス様の葬られた墓の場所を知っていたと言うことです。
なぜならマグダラのマリヤを残して、エルサレム市内にあるゼベダイの家から、一目散に墓めがけて走って行ったからです。
要するに、ペテロとヨハネは、女たちと一緒に、イエス様が十字架から降ろされ、そして亜麻布に巻かれ、アリマタヤのヨセフの新しい墓に葬られ、丸い石でふたをするまでの一部始終を見ていたと言うことなのです。
だからこそ、ヨハネは信じられたのです。》