◇◆◇2018年7月15日第三主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章27節】 (新約p.192下段左側)
14:27 「私は、あなたがたに平安を残します。私は、あなたがたに私の平安を与えます。私があなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
◎メッセージの概要【本当の平安とは?】
《今日から再びヨハネの福音書の学びに戻ります。この時には、十一使徒と主イエス様は、まだエルサレム市内のヨハネ・マルコの家の二階の大広間にて、最後の晩餐をされています。イスカリオテのユダはすでに出て行った後です。
さて、イエス様は弟子たちに、「私は、あなたがたに平安を残します。」と言われました。ここで「平安」と言う言葉に使われているギリシャ語は、「シャローム」と言う言葉です。この言葉には、深い意味が含まれています。つまり、病気に対する健康、貧困に対する繁栄、未完成に対する完成、不安に対する安全、不和に対する和解、乱れに対する統一などを含んでいるのです。「平安」の反対語は、「思い患い」であり「恐れ」です。そしてそれは人の心を騒がせることになるのです。
十一使徒たちに、これからそのような大きな出来事が起こることを、主イエス様はご存知でした。しかし彼らは、まだ主イエス様の言われた受難予告の意味を、真に理解することは出来なかったのです。
その彼らに、まず「私は、あなたがたに平安を残します。」と約束されたのです。それは、少し前に言われた約束の言葉です。
「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。私は、あなたがたのところに戻って来るのです。」この言葉には、三つの約束があります。
一つは、「あなたがたを捨てない」と言うことです。
主イエス様の方から、私たちを決して見捨てないことを約束されたのです。
二つ目は、「孤児にはしない」と言うことです。
これは、独りぼっちにはしない、と言う約束です。いつも共にいて下さると言うことです。
三つ目は、「戻って来る」と言うことです。
これは、主イエス様は再び来られることであり、必ずお会いして下さると言う約束です。
主イエス様は神様です。神様は、約束されたこと、誓われたことを必ず守って下さいます。そのことについて、ヘブル人の手紙の著者は、このように述べています。
『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。
「私は必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。』と。
次にイエス様は、「私は、あなたがたに私の平安を与えます。」と約束されました。これは預言です。この約束を手にする為には、主イエス様の十字架と三日間の暗闇を経験しなければならないことになります。
主イエス様がよみがえられ、弟子たちにその姿を現わされた時に成就します。
復活されたイエス様は、弟子たちにこのように約束されました。
「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」
これこそが、まさにまことの、本当の平安なのです。主イエス様が、いつも共にいてくださる、しかもこの世の終わりまでです。この世界には限りがあります。しかし主を信じる者には、永遠の命が与えられています。天の御国においては、生きておられるイエス様と永遠に共にいることになります。
そして、主イエス様が与えて下さる平安とは、愛して下さることによって与えられます。
私たちは、本当に愛されているのです。
イザヤ書では、主なる神様は、明確に宣言されています。
「恐れるな。私があなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。あなたが水の中を過ぎるときも、私はあなたと共におり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。私が、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。私は、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。だから私は人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。私があなたと共にいるからだ。」
主の愛された弟子であると自称する使徒ヨハネは、本当に従兄弟であるイエス様に愛されたのです。そのヨハネは、このように教えています。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
十字架こそが、究極の愛のしるしです。誠の愛には「しるし」が伴うものなのです。父なる神様は、私たちの代わりに、御子イエス様を十字架にかけられました。
イエス様は、友と呼んだ使徒たちの為に、そして私たちの為に、罪を背負い死んで下さいました。本来、私が受けるべき刑罰を、身代わりとなって受けて下さったのです。
私たちは愛されています。主イエス様は愛して下さっておられるのです。本当の平安は、主の約束された言葉によって、主が共にいて下さることによって、そして主が愛して下さることによって、すでに与えられています。
だからこそ主イエス様は言われます。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と。思い患うことも恐れることも、それは不信仰の何物でもないからです。》