◇◆◇2018年7月29日第五主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書15章1節~2節】 (新約p.193上段左側)
15:1「私はまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。
15:2 私の枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
◎メッセージの概要【ぶどうの木のたとえ】
《イエス様と十一人の弟子は、いまだヨハネ・マルコの家にある二階大広間で、「最後の晩餐」をしています。そしてその頃、イスカリオテのユダは着々とイエス様を捕らえる準備をしているのです。
イエス様に残された時間は、あと約12時間くらいだと思われます。夜が明けて午前9時には十字架にかけられ、午後3時には、死んで行かれるのです。十一人の弟子たちには、まだそれが分かっていません。
さて、何度も言いますが、ヨハネが書き記した13章から17章までは、まさにイエス様の弟子たちへの遺言とも言うべきものです。その中にたくさんの真理が含まれていますが、一番伝えたいメッセージは二つなのです。一つはイエス様が約束されたことです。
「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。私は、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもう私を見なくなります。しかし、あなたがたは私を見ます。私が生きるので、あなたがたも生きるからです。」
この短い言葉の中に五つの約束があります。
一つ目は、「捨てない」
二つ目は、「孤児にはしない」
三つ目は、「戻って来る」
四つ目は、「あなたがたは私を見る」
そして、「あなたがたも生きる」
特に最後の約束は、主イエス様が永遠に生きるからこそ、主を信じる者には、永遠のいのちが与えられると言う証拠になるわけです。
さて、イエス様は突然「ぶどうの木のたとえ」をなさいました。その説き明かしは次回に回しますが、今日は、特にこの箇所の真意について考えて見たいと思います。
実は、多くの訳の聖書がありますが、ほとんどが誤訳とも言えるのです。この箇所から、語られるメッセージは、多くの場合、
「主はぶどうの木で、私たちは枝です。農夫である父なる神様は、実を結ばない枝は取り除かれます。つまり役に立たない枝は切り取られるのです。次に実を結ぶ枝には、父なる神様は刈り込みをされ、もっと実が実るようにされるのです。つまり試練を与えて、もっと役に立つ者とします。イエス様と言う木から取り除かれないように、しっかりとした信仰生活を送りましょう。また試練が与えられたのなら、それは「刈り込み」であって、耐え抜いて、さらに役立つ者となりましょう。」と言った所でしょうか。
これは、日本のぶどう園とイスラエルのぶどう園との認識、つまりイメージが異なっていることから起こった可能性があるのです。
イエス様はある時、「ぶどう園の農夫のたとえ」を話されました。一日一デナリの約束で労務者を雇いに行った主人の話です。午前7時・9時・12時・午後3時そして午後5時、特に最後の者は1時間しか働いていません。それにも関わらず、このぶどう園の主人は、それぞれに一デナリを与えるのです。しかも、後から来た者から先に。
最初に雇われた者は言います。
『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
この言葉にイスラエル地方のぶどう園の実体が隠されています。日本のぶどうの名産地である、勝沼ぶどう園は、まるで屋根のように枝が張り巡らせています。確かにムンムンして、木の下は暑いですが、日差しは遮られています。
しかしユダヤ地方のぶどう園は、そうではなく地面に這わせているのです。これですとまともに日差しを受けます。
「ぶどう園の農夫のたとえ」では、あとの者が先になり、先の者があとになる、と言う結論を教えられていますが、この中で最も大切なメッセージは、たとえ働きが少なくとも、この主人のように、神様は哀れみと慈しみ深いお方であって、同じように恵みを下さり、また用いて下さるお方であると言うことです。
イエス様は、弟子たちとの約束で、一つ目に「捨てない」と約束されました。
さて、イスラエルでは、ぶどうの木が成長する為には、実は何年もかかるそうです。地に這わせていますから、時々雑菌などによって実がならない枝があるようです。
そのような枝を見つけますと、取り除くようなことは絶対にしません。なぜなら枝が伸びるには年月がかかりますから、切り取るような、そんなもったいないことは絶対にしないのです。どうするのかと言いますと、地面から持ち上げて石で支えるのです。そうするとまた実が、実り始めるそうです。
「取り除く」と言う意味のギリシャ語は、実は三つの意味を持っています。「運ぶ」「持ち上げる」「支える」です。
日本語訳は、最初の「運ぶ」と言う意味を選択して、「取り除く」と訳したのです。
農夫である父なる神様は、「実がならない」と言って、私たちをイエス様から引き離す、つまり取り除くことは、決してされないのです。神様はそんなお方ではありません。
それでは、もう一つのメッセージとは何なのでしょうか。イエス様が話された「ぶどうの木のたとえ」とは何なのでしょうか。
使徒パウロは、「オリーブの木のたとえ」でこのように教えています。それは、
『彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。見てごらんなさい。神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは、厳しさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。』
と言うことです。
イエス様は弟子たちに、「私にとどまりなさい」と言うことを何度も教え、また命じられ、また願っているのです。
つまり、そのような大きな試練がこれから、弟子たちにやって来るからです。それは十字架と、暗黒の三日間のことです。
「ぶどうの木のたとえ」のメッセージは、
「私にとどまりなさい。私も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
と、言うことであり、何が起こイエス様を信じ続けることなのです。イエス様の信仰にとどまることなのです。》