◇◆◇2018年8月5日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書15章3節~5節】 (新約p.193上段左側)
15:3 「あなたがたは、私があなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです。
15:4 私にとどまりなさい。私も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
◎メッセージの概要【私にとどまりなさい】
《主イエス様は、十一人の弟子たちに突然、「ぶどうの木のたとえ」を話されました。
『「私はまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。私の枝で実を結ばないものは皆、父がそれを取り除き、実を結ぶものは皆もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」』
実は、旧約聖書には、主(父)なる神様は、選民であるユダヤ人あるいはイスラエルを、「ぶどう畑」にたとえたことが、数多く残っています。
それによりますと、農夫である神は、良いぶどうの木を植えて、甘いぶどうがなるのを楽しみに待ち望んだのに、ところがとても食べることの出来ない、酸いぶどうが出来てしまったと、イザヤ書、エレミヤ書や他の預言書には書かれているのです。
そして、そのたとえについては、弟子たちは知っています。
使徒パウロは、私たちとイエス様の関係をオリーブの木と枝にたとえています。
『もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。』
私たちは、イエス様と言うぶどうの木に接ぎ木された枝なのです。パウロが言うように、イエス様と言う木から養分をいただいて生かされているのです。
イエス様は、「あなたがたは、私があなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです。」と言われましたが、主の語られたみ言葉によって、彼らは救われたことを、永遠のいのちを持っていることを、イエス様は宣言されたのです。
「私にとどまりなさい。私も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
イエス様は、「私にとどまりなさい」と言われました。このことから、私たちには、「とどまる」ことと、「とどまらない」ことの選択肢が与えられていることが分かります。
私たちが、主イエス様を信じる信仰に、そのみ言葉に聞き従うことにとどまるのなら、イエス様もとどまってくださると言うことなのです。そしてそうすれば、多くの実を結ぶと約束されているのです。
さて、それでは「私にとどまりなさい」、つまり「主イエス様にとどまる」と言うことは具体的にはどのようなことなのでしょうか。
それは黙示録においてイエス様がヨハネにこのように語っています。
『見よ。私は、戸の外に立ってたたく。だれでも、私の声を聞いて戸をあけるなら、私は、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。』
食事とは、ひとりよりも数人でした方が楽しいに決まっています。なぜならそこには人格と人格との交わりがあるからです。
「私にとどまりなさい」と言うことは、主イエス様との人格との交わりを続けることなのです。そして食事は一回ぽっきりではありません。今朝、皆様は朝食を取って礼拝に来られたと思われますが、礼拝が終わるとやはりランチが待ち遠しいわけです。つまり食事をとり続けることになります。食べなければ、餓死してしまうからです。
イエス様との食事も同じなのです。「私にとどまりなさい」と言うことは、「私にとどまり続ける」ことを意味しています。
バプテスマのヨハネによって洗礼を受けられた後、御霊によってイエス様は荒野に導かれ、悪魔本人から四十日の誘惑を受けられました。四十日目が終わった時、イエス様は空腹を覚えられたと、聖書は言っています。
その時悪魔は、イエス様に「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言ったのです。これは冗談ではありません。からかったのではありません。イエス様には簡単にお出来になられたからこそ、悪魔は誘惑して来たのです。
するとイエス様は答えて言われました。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。』と書いてある。」と。
それゆえイエス様は、弟子たちにはっきりと言われたのです。
「あなたがたは、私があなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです。」と。
私たちは「霊的存在」です。食事をしなければ、やがて肉体が弱って行くように、本当の私たちの存在そのものである霊にも食事が必要なのです。それも日々にです。
それが主イエス様の語られた言葉であり聖書なのです。それがデボーションなのです。
主イエス様と言う「ぶどうの木」にとどまり続けることによって、やがて私たち自身に多くの実が実り始めます。その実こそが御霊の実であり、使徒パウロはこう教えています。
『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』
この九つの実がなって始めて、この世の人々は、私たちに「何かの違い」を感じることになります。
私たちは枝です。養分は、イエス様と言う木を通って、一番先の細い枝である私たちひとりひとりに運ばれて行きます。
そして大きなぶどうの房が実ったのなら、父なる神様も主イエス様も喜んで下さいます。それによって神様に栄光が帰されることになるのです。》