• 2018年8月19日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年8月19日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書15章9節~11節】 (新約p.193下段左側)
    15:9「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。
    15:10 もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。それは、私が私の父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです。
    15:11 私がこれらのことをあなたがたに話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

    ◎メッセージの概要【喜びに満たされる人生とは?】
    《本日も主イエス様が言われた「ぶどうの木のたとえ」の続きになります。このたとえは、十一使徒たちの為であり、これから彼らが迎えることになる大きな試練に立ち向かう為のものであるわけです。もちろんこれから彼らは何が起こるのか、全部知っているわけではありません。ただイエス様が何度も言われた受難予告に、非常に不安を抱いていたことは事実です。
     主イエス様は、何度も繰り返し「私にとどまりなさい。」と言われます。これが未来のことであることは明白です。
     なぜなら彼らは、今イエス様と共に、エルサレム市内にあるヨハネ・マルコの家の二階の大広間にて、楽しい最後の晩餐を行なっているのです。美味しいぶどう酒をたくさん飲んでほろ酔い気分になっています。そうです。彼らは、この時とどまっているのです。
     イエス様が言われているのは、とどまれないような状況がやって来ることを預言して話されているのです。
    「父が私を愛されたように」
     天のお父様は、御子イエス様を愛しておられました。三位一体の神様は互いに愛し合っておられることを私たちは新約聖書を通して知っています。
     ルカは、十二歳、すなわちバル・ミツバを受けて大人として加えられる一年前にイエス様がエルサレムにおいて迷子となった記事を書き記しています。
     マリヤとヨセフが引き返してイエス様を見つけた時に、イエス様は両親にこう言われたのです。
    「どうして私をお捜しになったのですか。私が必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
     この時にはすでに、イエス様と父なる神様との麗しい関係が始まっていたのです。
     そしてルカは、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」と書いています。
     またイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を授かった時に、天から声がしました。
    「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」
     父なる神様の溢れるばかりの愛を受けられたからこそ、イエス様は父に従われたのです。
     そしてイエス様は、ご自身が選ばれた使徒たちを「私もあなたがたを愛しました。」と言われたように、最後の晩餐の食事の途中において弟子たちの足を洗われたのです。
     ヨハネによりますと、
    『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。』
     と書き記しています。
     父なる神様とイエス様は、愛し合う関係であって、それと同じようにイエス様と弟子たちも愛し合う関係であったわけです。
     それは人格と人格との深い交わりのことであり、特にイエス様は、いつも父なる神様により頼み、その思いと御心に従っておられました。
     死んだラザロをよみがえらせる時に、イエス様は、
    「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。私は、あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました。しかし私は、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。ラザロよ。出て来なさい。」
     ここで、イエス様は、「あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました。」と告白されています。これこそが、満たされた人生を歩む秘訣なのです。
     イエス様の愛の中にとどまることとは、
    「あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。それは、私が私の父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです。」と言うことになります。ここで「戒め」と訳されている言葉は「言葉」と同じ単語です。
     イエス様を愛している者は、イエス様の言われた言葉を敬い、そして従うのです。なぜなら愛しているからです。そのような愛の関係を続けることこそが、喜びに満たされた人生を送ることになるのです。
     そしてそのような人は、さらに喜びが満ち溢れて行きます。そのことを、「主に愛された弟子である」と、自ら主張して止まないヨハネは、その第一の手紙においてこう証しています。
    「何事でも神のみ心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
     イエス様は、私たち一人一人が「喜びに満ちた人生」を歩むことを願っておられます。私やあなたが「喜びに満ちて」いたとしたら、イエス様も喜ばれるのです。
     そして喜びに満ちた人の顔は、さらに輝きを増し、そして人々に満ち溢れる喜びが、こぼれ落ちた喜びが伝わって行きます。そうなれば、その人は、まさに父なる神様の栄光を現わすのです。
     それでは、喜びに満ちた人生を送る為にはどうしたら良いのでしょうか。それは、イエス様との深い交わりを続けることなのです。何時も、いかなる時にもです。
     もし今喜びに満ちた人生を送っていないと思える人は、もう一度イエス様との関係を見つめ直す必要があります。今あなたはイエス様と疎遠になってはいませんか。
     イエス様は父なる神様からたくさんの愛をいただきました。父なる神様が愛されたからこそ、弟子たちを愛することが出来るのです。
     そしてイエス様に愛された弟子は、特に使徒の中で一番若かったヨハネは、やがて同じように、教会の長老として多くの人々を愛し、導き続けることが出来るのです。
     私たちは、満たされた人生を歩むべきです。
     それは多くの物で満たされることではありません。
     あるいは、一生かかっても使い切れないお金で満たされることではありません。
     心が満たされるのです。魂が満たされるのです。
     その部分を満たして下さるお方はただお一人です。イエス様なのです。
     イエス様は言われます。
    「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と。》

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