◇◆◇2018年10月7日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書16章4節】 (新約p.195上段右側)
16:4「しかし、私がこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、私がそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。私が初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからです。」
◎メッセージの概要【時が来れば思い出す】
《「私があなたがたと一緒にいたからです。」このメッセージには、やがてイエス様が弟子たちと離れることを前提として語られています。よってこの預言の言葉も二重の意味を含んでいます。十字架にかけられた後の三日間、そしてよみがえられオリーブ山において、昇天された後のことです。そして「その時」とは、さらに数十年後のことを指しています。
特に、ある一人の人物が大きなカギを握ります。ペテロは手紙の最後のあいさつ文に、「私の子マルコもよろしくと言っています。」と書いています。
ここに登場する「私の子マルコ」とは、ヨハネ・マルコのことです。伝承では彼の家が、主と使徒たちが最後の晩餐を行ない、そして聖霊が降臨された場所なのです。
またヘロデ・アンティパスに捕らえられ、処刑寸前のペテロが、御使いによって奇跡的に救出された時、戻ってきたのがマルコの家なのです。
このマルコは、バルナバのいとこであり、バルナバとパウロに愛され、ペテロにとっても無くてはならない通訳兼同労者であったのです。マルコはペテロのメッセージを正確に書き留めていたと言われています。そしてペテロの存命中、紀元五十年中頃に、福音書を執筆したのです。
そしてそれを参考として、紀元六十年頃にマタイがユダヤ人同胞の為に福音書を執筆しました。そして今度は、パウロの同労者ルカが、紀元六十二頃に福音書を書き、紀元六十五年頃に続編「使徒の働き」を執筆したのです。
まさに、「その時」、つまりイエス様が十字架にかけられてから二十年から三十年後にかけて、三つの共観福音書が完成するのです。それもヨハネ・マルコと言う青年が存在していたからこそ成し遂げられたのです。そのような意味においても、マルコも選ばれた器であることが分かります。そして助け主であられる聖霊様が、マルコを用いられたこともイエス様の預言の成就と言えるでしょう。
「しかし、助け主、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」
さらにこの預言は、生き残った最後の使徒ヨハネにおいても成就します。ヨハネが福音書を書き記したのは、紀元九十年頃から二世紀にかけてとも言われています。何とそれは、イエス様の十字架から六十年以上後のことになるのです。
ヨハネは、その書の最後をこのように締めくくっているのです。
『これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。』
つまりまだ書くことがたくさんあることを、ヨハネは思い起こしているのです。またそれほどに多くのことを、イエス様は教え、奇跡や御わざを行なわれたのです。そのことをヨハネは、はっきりと覚えているのです。この時ヨハネは、八十歳から九十歳であったはずです。まさに聖霊様の御わざによるものなのです。
それでは、なぜ思い出す必要があったのでしょうか。
その答えは、イエス様が語られた「言葉」にあるからです。
イエス様は、ユダヤの指導者たちにこのように言われました。
「私は、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、私が何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。私は、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、私が話していることは、父が私に言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
言葉なのです。
イエス様は、十二使徒に多くの言葉を語られたのです。その言葉が残される必要があり、また誰でも読む必要があったからです。そしてその言葉を弟子たちに、すなわちご自身を信じる者たちに託したのです。
「だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人の所に来て、その人と共に住みます。私を愛さない人は、私の言葉を守りません。あなたがたが聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。」
私たちには「聖書」が与えられています。今は、一人一冊以上の聖書を所有できる時代に生かされています。
私たちは、何が道で、何が真理で、そして永遠の命に至る道を知っているのです。神様の言葉は生きています。
私たちも使徒たちと同じように、神様の言葉を託された者なのです。言葉は語らなければ音声にはなりません。文字は文字です。しかしその言葉を私たちが発するならば、生きた言葉となるのです。私たちは、生きた神の言葉を聞き、また生きた言葉を語ることを選ぶことを、常に心掛ける必要があります。
十字架の言葉は滅びる至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのですから。》