• 2018年10月28日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年10月28日第四主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書16章12節~15節】 (新約p.195下段右側)
    16:12 「私には、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
    16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
    16:14 御霊は私の栄光を現わします。私のものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
    16:15 父が持っておられるものはみな、私のものです。ですから私は、御霊が私のものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

    ◎メッセージの概要【すべての真理とは?】
    《主イエス様は、弟子たちに、「あなたがたに話すことがまだたくさんあります。」と言われましたが、実際にはイエス様に残された時間はあと僅かでありました。
     そして「耐える力がありません。」と言われたことは、まだ「助け主」が来る前ですので、これから起こることを全部話したとしたら、彼らはパニックになってしまうかも知れなかったからです。
    「真理の御霊が来るとあなたがたをすべての真理に導き入れます。」と言われましたが、イエス様が最初に、「もう一人の助け主」を送られることを言われた時には、そのお方は「真理の御霊」であることを語られました。そして今日の聖書箇所においても、同じように「真理の御霊」が来ることを言われています。
     すなわち「真理」とは、御霊(聖霊)の助けがなければ、私たちには、到底理解することが出来ないということが、語られています。
     ところで、イエス様が言われる「真理」とは何でしょうか。
     かつてイエス様は、エルサレム神殿において、パリサイ人や律法学者たちに言われました。
    「もしあなたがたが、私の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。神から出た者は、神の言葉に聞き従います。」
     つまり真理とは、イエス様が語られた言葉であり、神の言葉であるのです。
     さて、イエス様は「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」と言われましたが、これは素晴らしい約束です。
     かつてトマスが質問した時に、イエス様はこのように答えられたのです。
    「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」と。
     そして使徒パウロは、「すべての真理」について、この様に説明しています。
    『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
     御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。』と。
    「すべての真理」とは、文字通り、全宇宙の真理を解き明かすことではありません。いかに科学が発達したとしても、神様の創造の御わざをすべて解明することは、人間には不可能なことなのです。
     一番大切なことは、この世界は誰が造ったのか、私たち人間はどこから来て、どこへ行くのか、なぜ私たちは存在するのか、私たちが存在する意味と目的は何なのか、と言うことなのです。その答えは、主イエス・キリストなのです。
     私たちは、創造主なる神様と親しい関係を取り戻し、神様を愛し、神様を喜び、神様に愛され、神様に喜ばれる為に存在するのです。それはイエス様を通して可能なことなのです。
     主イエス様は、ヨハネに幻によって啓示と黙示を与えられました。その最後の22章には、このように書かれています。
    「見よ。私はすぐに来る。私はそれぞれのしわざに応じて報いるために、私の報いを携えて来る。私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」と。
     ここで主が言われる「それぞれのしわざ」とは、私たちが主イエス様をどのように扱ったのかが、問われているのです。
     イエス様を信じ受け入れ、自分の主としてお迎えし、永遠のいのちをいただく恵みにあずかれたのか、はたまた、主の赦しの御わざと、差し伸べられた救いの手をはねつけたのかが、問われることになるのです。》

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