◆◇2018年11月11日第二主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書16章21節~22節】 (新約p.196上段右側)
16:21「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、私はもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
◎メッセージの概要【もう一度】
《イエス様は、ここで「産みの苦しみ」のたとえを話されました。出産の苦しみは、女性だけが経験しうるものであり、男性には分からないことです。イエス様は確かに男性として来られました。それは、生まれてから八日目に、割礼を受けていることから明らかです。
そして、男性であると同時に、創造主であり神の御子でもあるのです。
私はこう理解しています。イエス様はすべての人の主であられます。それはすべての男性、すべての女性の主であると言うことです。
そして、すべての人間のすべての罪を背負われて、十字架にかかられたのです。そうだとするならば、すべての男性と女性の罪も苦しみも悲しみも、そして痛みさえも背負われたと言うことになるのです。全部知っておられると言うことです。
さて父なる神様は、エデンの園において、エバにはこのような裁きを下されました。「私は、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産まなければならない。」
イエス様が言われた、「産みの苦しみ」と同じようたとえが、何とイザヤ書に書かれているのです。
『子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。』
ここでは、産みの苦しみと共に、よみがえりについて、預言されています。
さて、次にイエス様は「もう一度」あなたがたに会う、と言われましたが、この言葉にも大きな付せんが隠されています。
ルカは、ガリラヤ湖において、最初の大漁の奇跡を書き記しています。それによりますと、
イエス様はシモンに言われました。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもお言葉どおり、網をおろしてみましょう。」
すると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった、と喜びに満ちあふれた経験が書かれています。
また、ヨハネは、同じようなことがガリラヤ湖において、イエス様の復活後に起こったことを書き記しているのです。
シモン・ペテロが、他の弟子たちにこう言ったのです。
「私は漁に行く。」
「私たちも一緒に行きましょう。」
そしてシモンの持ち舟に乗り込んだのですが、その夜は何も取れませんでした。同じです。
夜が明けそめた時、イエス様は岸べに立たれましたが、けれども弟子たちには、イエス様であることがわからなかったようです。
「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」
「はい。ありません。」
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
そこで、彼らは網をおろしたのです。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができません。まさに大きな奇跡です。
ペテロが、主イエス様と分かると、一目散に湖に飛び込んだのでした。まさしく「もう一度」イエス様は、十一使徒たちに会って下さったのです。
主イエス様に、「もう一度」お会いすると言うことは、ただ単に顔と顔とを合わせることではなく、人格と人格との出会いであることが分かります。なぜなら主イエス様は、生きておられるからです。
さて、「あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と言われました。
そして「喜び」については、このような約束を弟子たちにされています。
「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
ここで「私の喜び」すなわち主の喜び、それは弟子たちを、そして私たちを愛して止まない喜びであり、同じく主を愛する喜びでもあるのです。
主イエス様は、私たち一人一人の存在を本当に喜んでおられます。だからこそ、私たちは心から主を喜ぶのです。
主の御わざを喜ぶのです。
十字架の御わざを喜ぶのです。
そうすれば、主の喜びが上からやって来ます。上から降り注がれるのです。
使徒パウロは勧めています。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と。》