• 2019年2月10日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年2月10日第二主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書17章9節~12節】 (新約p.197下段右側)
    17:9「私は彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたが私に下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
    17:10 私のものはみなあなたのもの、あなたのものは私のものです。そして、私は彼らによって栄光を受けました。
    17:11 私はもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、私はあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたが私に下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。それは私たちと同様に、彼らが一つとなるためです。
    17:12 私は彼らと一緒にいたとき、あなたが私に下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」

    ◎メッセージの概要【あなたの御名の中に】
    《主イエス様は、父なる神様に、十一弟子たちのために、取りなしの祈りをされています。
    「私は彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたが私に下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。私のものはみなあなたのもの、あなたのものは私のものです。そして、私は彼らによって栄光を受けました。私はもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、私はあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたが私に下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。」
     この主イエス様のお言葉には、私たちが「どんな者」なのか、つまり私たちのアイデンティティーが要約されているのです。
     私たちは、もはやこの世のものではありません。私たちは、父なる神様のものであり、イエス様のものなのです。
     最後の晩餐の中頃にさしかかった頃、主イエス様は弟子たちにこのように語られました。
    「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりも私を先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえって私が世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」と。
     ここではっきりと、弟子たちそして私たちは、主イエス様が「世から選び出した」ことを明確に教えています。
     そして、このようにも祈られたのです。
    「私は、あなたが世から取り出して私に下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らを私に下さいました。」と。
     ここから、弟子たちそして私たちは、父なる神様が世から取り出し、主イエス様に委ねられたと言う真理が分かって来ます。
    「私はもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、私はあなたのみもとにまいります。」
     この言葉をヨハネ以外に誰が聞いていたのでしょうか。ヨハネ自身も、主イエス様のこのお祈りの言葉を耳にした時、非常な悲しみにおそわれたに違いないのです。
     この言葉通りに、この時から約12時間後に、主イエス様は十字架にかかられるのです。そしてその6時間後には、死んで行かれます。その一部始終をヨハネは目撃するのです。
    「聖なる父。あなたが私に下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。」
     ここで主イエス様が願っておられることは何なのでしょうか。それは詩篇91篇「モーセの祈り」の詩篇に、描かれています。
    『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
     あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
     千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
     それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
    わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。』
     主イエス様が、十二弟子たちと共におられた3年半における公生涯において、主の御名の中に、彼らを守られたのですが、主イエス様がこの世から取り去られた時には、父なる神様の御翼の中にかくまって下さることを願っているのです。
     そして「彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」と言われましたが、しかしこの時点では、イスカリオテのユダはまだ生きています。
     今ユダは、ローマ兵とサンヘドリン議員たちを先導し、主イエス様を捕らえる為の準備に専念しているのです。
     かつてイエス様は、十二弟子たちにこのように言われました。
    「私があなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちの一人は悪魔です。」
     ここでヨハネは「イエス様はイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた」と注釈を加えていますが、しかし主は、ユダの罪をあばくのではなく、悔い改めを促しているのです。
     また「それは聖書が成就する為です。」と言われましたが、これはダビデによる詩篇41篇を指し示しています。
    『私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。』と。
     しかしここでは、共に食事をした親しい友が裏切ることだけが預言されており、この者が滅びることまでは、預言されてはいないのです。
     ゲッセネマにおいて、イスカリオテのユダが来た時、主イエス様はまだあきらめてはいませんでした。その時、主イエス様は、本当に最後の悔い改めの機会を与えられたのです。
    「友よ。何の為に来たのですか」と。
     私たちの神様は、まことに最後の最後まで、ぎりぎりまで待たれるお方です。しかしそれは無制限ではなく、また無期限ではないのです。期限は必ず訪れるのです。
     ゲッセネマにおいてイスカリオテのユダは、主の御元にひざまずき、赦しをこうべきだったと、私は思っています。
     もし、そうだったとしたら、彼はペテロと同じくらいに、素晴らしい使徒になったのではないかと、私は思っています。そして殉教したに違いありません。》

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