• 2019年3月3日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年3月3日第一主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書17章17節~20節】 (新約p.198上段右側)
    17:17 「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみ言葉は真理です。
    17:18 あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました。
    17:19 私は、彼らのため、私自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
    17:20 私は、ただこの人々のためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします。」

    ◎メッセージの概要【聖め別ちとは?】
    《「聖め別つ」と言うこの言葉は「広辞苑」には出て来ません。よってキリスト教用語であり、また造語でもあるかと思います。
     ここでイエス様が言われている「真理」とは、真理の御霊である聖霊様を指しています。そして聖霊様は、常にみ言葉(聖書)を指し示されるのです。
     主イエス様が、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました。」と言われた通りに、私たちは、主がこの世から選び、取り出して下さった者なのです。
     そして今度は、証人として、再びこの世に遣わされることになるのです。
     もちろん、主イエス様が言われたことは預言であって、これから成就することになります。主イエス様は、十一人弟子たちの為に、父なる神様に取りなしの祈りをされておられるのです。
     しかもこの祈りは、彼らの為だけでなく、彼らによって主の御名のもとに導かれ、救われる人々をも指し示します。
     そうです。今現在生きている、私たちクリスチャンにも当てはまるのです。
    「私は、彼らのため、私自身を聖め別ちます。」と主イエス様は祈られました。これは「十字架」を意味しています。
     今は終わりの時代です。主イエス様の再臨が近づいています。しかしその前に、主イエス様が花婿として花嫁である教会を天に引き上げる携挙が起こります。
     さて文明が発達しますと、決まって性の乱れが生じます。そのことを使徒パウロはこのように警告しています。
    『こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。』と。
     アメリカではすでに同性婚が認められ、何と日本においてもそのような流れが押し寄せています。性同一性障害が公に公言され、何と神奈川県においては、県立高校入試において、性別欄が撤廃されると言うことが決定されました。
     まさに使徒パウロが嘆いていることが、表面化して来たわけです。日本ではまだ同性同士が夫婦としては認められてはいませんが、このこともやがては時間の問題かも知れません。
     さて、戸籍上では夫婦としては認められなくとも、実際に結婚式が行なわれていることが明らかになりました。摩訶不思議と言いますか、そのようなカップルは、人前式ではなくキリスト教式で結婚式をあげるのだそうです。
     まさに「罪」そのものでなくて、何なのでしょうか。
     聖書に、そして創造主なる神様に反逆しているわけですから。
     かつて繁栄したソドムとゴモラにおいても、まさに同じ罪が蔓延していました。同性愛のことを、ここから「ソドミー」と呼ぶのです。
     主(肉体を持たれる前のイエス様)は、アブラハムにこう告げたのです。
    「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。私は下って行って、私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。私は知りたいのだ。」
     この後アブラハムによる「取りなし」が行なわれることは、皆さんが知る事実の通りです。しかしこの町には、十人の正しい人もいませんでした。よって、その町からロトと妻、そして二人の娘だけが助け出されます。
     しかしロトの妻は後ろを振り返ってしまった為、塩の柱になってしまいます。
    『そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。』
     これがソドムとゴモラに対する裁きです。この裁きはやがて、堕落しきった今現在の世においても、神様が成そうとしておられます。
     この世は益々、罪の深みに落ち込んで行きます。私たち、主イエス様によって遣わされる者は、この世と聖め別たれる必要があると言うことです。
     使徒パウロはこのように勧めています。
    『私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と。
     この証がパウロのものだけでなく、私たち一人一人の証しになる必要があるのです。私たちは、主イエス様が十字架において身代わりとして流して下さった尊い血潮によって、清められた者なのです。聖め別たれた者なのです。
     霊はこの世に属してはいませんが、体はまだこの世に置かれています。悪魔や悪霊どもは、何とかして私たちから、信仰を、喜びを、自由を奪い取ろうと躍起になっています。
     それだからこそ、気をしっかりと引き締め、「聖霊なるお方」すなわち「真理の御霊」と共に歩まなければならないのです。
     パウロはさらにこう勧めます。
    『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
     なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 
     しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
     もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。』
     「聖め別ち」とは御霊によって、すなわち聖霊様と共に歩むことによって、為しえることが出来る御わざなのです。私たちはもはや「罪の奴隷」ではありません。
     私たちは御霊に従って生きる者なのです。》

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