• 2019年3月17日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年3月17日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書17章24節~26節】 (新約p.198上段左端)
    17:24「父よ。お願いします。あなたが私に下さったものを私のいる所に私と一緒におらせてください。あなたが私を世の始まる前から愛しておられたために私に下さった私の栄光を、彼らが見るようになるためです。
    17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。また、この人々は、あなたが私を遣わされたことを知りました。
    17:26 そして、私は彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたが私を愛してくださったその愛が彼らの中にあり、また私が彼らの中にいるためです。」

    ◎メッセージの概要【父よ、お願いします】
    《引き続き主イエス様の祈りについて学んで行きます。
     主イエス様と十一弟子たちは、まだヨハネ・マルコの二階の大広間に留まっています。主イエス様は、祈っておられます。その祈りを、主の右に座していたヨハネだけが聞いていました。もしこの祈りを、ペテロが聞いていたとしたら、間違いなくメッセージとして語ったに違いありません。そのメッセージを基にしてマルコは福音書を書いたのですから。しかし、この時のペテロは、主イエス様によって末席に座らせられたのです。
     末席とは、主人から一番遠い席のことであり、おそらくマタイもその近くにいた可能性があります。ヨハネ以外の弟子たちは「誰が一番偉いのか」、議論していたに違いありません。
     マルコ・マタイ・ルカの福音書が書かれてから、少なくとも三十年以上後に、このヨハネの福音書は執筆されることになります。
    「父よ。お願いします。」
     この言葉に、強い願いと祈りが込められています。主イエス様は、ご自身が残して行かなければならない十一弟子の為に、そしてやがて彼らを通して信仰に導かれるすべての人々の為に願っておられます。主の取りなしの祈りもいよいよ最後の場面を迎えています。
    「あなたが私に下さったものを私のいる所に私と一緒におらせてください。」もちろんこれは預言です。十字架と復活と昇天を通して始めて成就することになります。
     パウロは、このように説明しています。
    『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
     また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
     神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
     あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と。
     これが私たち、主に救われた者の「アイデンティティー」なのです。私たちの体は、確かにこの世に属していますが、霊的には、主イエス様と共に、父なる神様の右の座に、共に座しているのです。何と光栄なことなのでしょうか。
     次に、「私に下さった私の栄光を、彼らが見るようになるためです。」と言われましたが、主イエス様は、公生涯において様々なしるしと不思議と奇跡を行なわれました。
     そして、このように彼らに約束されたのです。
    「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私を信じる者は、私の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。私が父のもとに行くからです。また私は、あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになる為です。あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう。」と。
     もちろんこれも預言で、後に使徒たちを通して成就することになります。
    「私は彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。」と言うことは、「父なる神様」と言う呼び名と、ご自身の「イエス」と言う名前のことです。「名」とは、その人の存在を表わすべき「固有名詞」となります。
     主イエス様の名前は、父なる神様が御使いガブリエルに託して母マリヤ、そして婚約者のヨセフに告げられました。
    『ヨセフがこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。
    「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」』
     イエスとは、ヘブル語「イエシュアー」あるいは、「イエホシュアー」のギリシャ語音読みで、その意味は「主は救い」です。
     ユダヤ最高議会において、使徒ヨハネと共に捕縛されたシモン・ペテロは、聖霊に満たされて、このように大胆に証言しました。
    「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」
    「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
     私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が誰によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
     弟子たちが、クリスチャン(キリストに属する者)と呼ばれたのは、アンテオケにおいてでした。その時には、多少嘲笑混じりのあだ名であったと思われますが、やがてキリストに従う者たちは、この呼び名を好んで用いるようになったのです。
     その意味とは、生まれる前から神様に選ばれ、主イエス様によって救われ、主イエス・キリストに属する者となり、主イエス様にすべてを依存して生きるようになった者たちを指す呼び名なのです。私たちがクリスチャンとして証しする時には、まさしく主イエス様の御名を伝えることになるのです。
     今回で、ヨハネの福音書17章を終え、いよいよ18章、十字架へのクライマックスへと入って行きますが、この時の主イエス様の取りなしの祈りがあるからこそ、今現在の私たちは、日々守られ、日々恵みの中に生かされているのです。
    「父よ、お願いします。」主の取りなしの祈りに感謝するだけです。》

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