• 2019年3月24日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年3月24日第主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章1節~3節】 (新約p.198下段左側)
    18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちと共に、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちと一緒に、そこにはいられた。
    18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
    18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

    ◎メッセージの概要【ゲッセマネの園】
    《ついに主イエス様と十一人の弟子たちは、エルサレム市内を後にしました。
     共観福音書には、イエス様がなされた「ゲッセネマの祈り」について、詳細にわたって書かれています。
     しかしヨハネは、何も書き記していません。これは、当時エペソにいたヨハネの手元に、三つの共観福音書があったからです。そしてあえて重複する所を省いたと言えるでしょう。
     それでは、共観福音書に書かれた記事に目を留めてみましょう。マタイは、
    『イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「私があそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
     それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとを一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。
    「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていなさい。」
     それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
    「わが父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみ心のように、なさって下さい。」
     それから、イエスは弟子たちの所に戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。
    「あなたがたは、そんなに、一時間でも、私と一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
     イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。
    「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみ心のとおりをなさって下さい。」
     イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちの所に来て言われた。
    「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。私を裏切る者が近づきました。」
     イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆も一緒であった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。』となっています。
     マタイはマルコの福音書を基に書き記しました。マルコは、ペテロの説教をまとめて、福音書を書き記したのです。よってペテロの観点から書かれたわけです。
     この時、主イエス様は、八人の弟子たちを残し、ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネだけをご自身の側に連れて来て、ご自身の祈りを聞かせたのです。
     よって出来る限り目を開けようとしたペテロが目撃し、耳にしたことが書かれています。それによりますと、イエス様は三回に渡って、一回に一時間近くを費やして祈られたのです。
     ルカだけは、御使いが現われてイエス様を力づけたこと、そしてイエス様が血の汗を流されたことを書き記しています。この場面をペテロは寝ていて、見ていなかったようです。
     ゼベタイの子の兄ヤコブは、早い時期に殉教しましたから、この場面を見たのはヨハネであって、後にパウロがヨハネから直接聞き出した可能性が非常に高いと思われます。
     実際には、ペテロもヤコブもヨハネも、程良いぶどう酒の酔いと一日の疲れの為に、ほとんど眠ってしまい、かろうじて覚えていたことだけが福音書に記されたのです。
     さて、主イエス様は何時ベタニヤに来られたのでしょうか。それについてヨハネは、はっきりと「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。」と書き記しています。つまりマルタとマリヤ姉妹と弟ラザロの家から、ゲッセマネを通ってエルサレム市内に通ったのです。
     その時、行き帰りの通り道のゲッセマネにおいて、寄り道をなされ祈っておられたようなのです。このことを、イスカリオテのユダは記憶していたことになります。
     次にユダについて考えて見ましょう。ヨハネは「イエスを裏切ろうとしていた」と書き記しています。また、マタイもイエス様が「私を裏切る者が近づきました」と書いています。
     そうなのです。過去形ではないのです。「裏切った」ではないのです。何とこの時には、まだイスカリオテのユダの裏切りは確定していないのです。すでに銀貨三十枚を受け取っていたにもかかわらず。
     かつてペテロはイエス様にこう尋ねたのです。
    「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
    「七度まで、などとは私は言いません。七度を七十倍するまでと言います。」これは、四百九十回までは赦せと言うことでなく、限りなく赦しなさいと言うことなのです。
     預言者イザヤはこのように預言しています。
    『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦して下さるから。』
     これこそが、創造主の願いなのです。だからこそ、神の御子であられるイエス様を十字架にかけられたのです。人類に真の「救い主」を送って下さったのです。
     イスカリオテのユダは、主の御元にひれ伏して赦しを請うべきだったのです。もしくは、銀貨三十枚を投げ入れた後、カルバリーの丘に、主の十字架の下に戻るべきだったのです。
     そして、もし使徒たちの中にイスカリオテのユダの友がいたとしたら、もっと結末は変わっていたかも知れないのです。私たちは滅んで行く魂に責任があるのです。私たちは、主イエス様のように、まだ主を知らない人々に対して真の哀れみと愛を持っているのでしょうか。》

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