• 2019年3月31日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年3月31日第五主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章3節~8節】 (新約p.198下段左側)
    18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
    18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
    18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それは私です。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
    18:6 イエスが彼らに、「それは私です。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
    18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
    18:8 イエスは答えられた。「それは私だと、あなたがたに言ったでしょう。もし私を捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

    ◎メッセージの概要【だれを捜すのか?】
    《夜半に一人、ヨハネ・マルコの家から出て行ったイスカリオテのユダは、ゲッセネマの園におられた主イエス様の所に戻って来ました。しかし、彼は一人ではなかったのです。
     ヨハネは、『ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて』来たことを書き記しています。ここに書かれている一隊の兵士とは、ローマ兵たちであり、またローマの百人隊長も一緒でした。
     なぜローマ兵が、ユダの指揮下にあるのは分かりかねますが、おそらく大祭司が、主イエスの暴動の危険性をポンテオ・ピラトに訴え、それ故、それを防ぐ為に送った可能性が非常に高いと思われます。それほどの大群衆であったのです。伝承では二千人以上の人々であったと言われています。
     ここからの記事は、三つの共観福音書とは少し異なります。マタイの福音書の著者である取税人レビは、もちろんこの場に居ました。よって彼自身が見た有様を書き記しています。
    『イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆も一緒であった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、
    「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
     それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。』
     となっており、マルコもルカもほぼ同じです。
     しかし、主イエス様の一番近くにいたヨハネは、ユダとイエス様の会話を省き、最初の出来事を書き記したのです。
    『イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それは私です。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに、「それは私です。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。』
     イエス様は、すべてをご存じでした。ユダがゲッセマネの園にやって来ることも、そしてその正確な時間も、また大勢の群衆を引き連れて来ることも、すべて知っていたのです。
     そしてイエス様の方から、「だれを捜すのか」と象徴的な質問をされたのです。これは単なる質問ではなく、この質問には、「私は誰なのか」と言う霊的な奥義が込められています。
     すると、彼らは答えます。「ナザレ人イエスを。」
     マタイは、その福音書の始めにこのように書き記しています。
    『そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。』
     イエス様は、ナザレ人イエス、あるいはナザレのイエスと呼ばれることになります。イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入場する「しゅろの日曜日」には、人々がイエス様を「この方は、ガリラヤのナザレの預言者イエスだ。」と言ったことをマタイは証言しています。
     イエス様は「それは私です。」と言われました。
     この言葉こそ、モーセがかつてホレブ山にて、聞いた主なる神の答えそのものなのです。
    『「今、私はイスラエル人の所に行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
     「私は、『私はある。』という者である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『私はあるという方が、私をあなたがたの所に遣わされた。』と。」』
     主イエス様は、ご自身こそが、この時と同じ神であることを、彼らに示されたのです。
     イエス様は、かつて律法学者や祭司長たち、ユダヤの指導者たちの質問に、明確に証言されたことがあります。
    『「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
    「私がもし自分自身に栄光を帰するなら、私の栄光はむなしいものです。私に栄光を与える方は、私の父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
     けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、私は知っています。もし私がこの方を知らないと言うなら、私はあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、私はこの方を知っており、そのみ言葉を守っています。あなたがたの父アブラハムは、私の日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
    「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
    「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」』
     この時にも、「あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」と言う問いに対し、主イエス様は、「私はいるのです」とお答えになられました。この言葉も同じなのです。
     イエス様が、群衆に、「それは私です。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた異様な光景をヨハネは書き記していますが、この時、たいまつと武器を持って来た人々もローマ兵も、そしてイスカリオテのユダも、神の力によって皆後ずさりし、倒されたのです。しかし、イエス様と、十一弟子たちは立っていたのです。
     生ける神の御子の御前では、どんな軍勢であっても、またどんな武器であっても、すべて無力なのです。主イエス様を打ち破ることなど誰も出来ません。
     またこの時、ご自身が使われた神の権威は、何度もご自身が「だれであるのか」の問いに対しての、最終的答えなのです。これにはイスカリオテのユダへの悔い改めの気持ちも込められています。全員が起き上がるまでには、かなりの時間がかかったはずです。
     彼らが顔を見合わせながら立ち上がると、イエス様はもう一度質問します。
    「だれを捜すのか。」
    「ナザレ人イエスを。」
    「それは私だと、あなたがたに言ったでしょう。」
     これも同じ言葉なのです。
     しかしこの時、彼らは倒されないのです。これはイスカリオテのユダの為なのです。ユダが悔い改め、ひざまずきイエス様に赦しをこうべき機会を与えられたのです。
     しかしこの後、ユダは主イエス様に口づけして、ついに裏切ることになります。この後、ペテロが剣を振りかざすのです。
     マタイは、その時に自分が聞いたことを書き記しています。
    「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、私が父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
     このお方こそ、人となられた神様ご自身であられます。そして身代わりとなって、すべての人の罪を背負われ、この後数時間後に十字架にかかられるのです。》

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