◇◆◇2019年6月9日ペンテコステ礼拝
◎本日の聖書箇所【使徒の働き2章1節~4節】 (新約p.209下段右側)
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話しだした。
◎メッセージの概要【ペンテコステ】
《今週は「ペンテコステ」となります。聖霊様が降られた記念すべき日です。「五旬節」とは、過越の祭が終わってから五十日目のことを指します。あるいは、7週の祭り(すなわち7×7=49日・ユダヤは数えです)もしくは「初穂の日」とも呼ばれ、もともとは大麦の収穫を祝う祭りのことでした。
多くの裕福なユダヤ人は、ユダヤ最大の祭りである「過越の祭」をエルサレム市内にある別宅で、その期間を過ごし、またこの五旬節の祭りを終えてから、それぞれ自分の国の家に戻ることが習わしだったのです。
それゆえ、ペンテコステの時にはローマ帝国の所領のあらゆる国々から、多くの敬虔なユダヤ人(祭りに常に巡礼するユダヤ人)が集っていました。このタイミングで聖霊が降られたことも、神様の大いなるご計画であったことは、言うまでもありません。
さてイエス様は「最後の晩餐」において愛する弟子たちに、約束されました。
「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたと共に住み、あなたがたのうちにおられるからです。」と。
そして、もう一つの約束は、
「しかし、私は真実を言います。私が去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もし私が去って行かなければ、助け主があなたがたの所に来ないからです。しかし、もし行けば、私は助け主をあなたがたの所に遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」あなたがたの所とは、素晴らしい約束です。
「もうひとりの助け主」こそが聖霊なのです。イエス様は、まことの救い主であられ、同時に助け主であられます。その真実は永遠に変わることはありません。イエス様は神様ですが、私たちと同じように肉体(血と肉)を持っていました。よみがえられた後も、栄光の体を持っています。つまり複数の場所には、同時に存在(偏在)は出来ないと言う制限があるのです。
ヨハネの黙示録において、イエス様は「ラオデキヤの教会」に、警告と共にこのように約束されました。この言葉は現在の教会に向けても語られています。
「見よ。私は、戸の外に立ってたたく。誰でも、私の声を聞いて戸をあけるなら、私は、彼の所にはいって、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする。」
これは、主イエス様ご自身が私たちの所に来て下さるのではなく、イエス様の霊である聖霊が、私たちの心の中に、私たちの霊の中に来て下さって、共に食事をして下さる、すなわち交わりをして下さると言う約束なのです。
交わりのことをギリシャ語で「コイノニア」と言います。それはおもに食事をすることなのです。一人の食事は、概してさみしいものですが、多くの人々と共に食事をすることは、とても楽しいことです。
それだからこそ主イエス様は、十二弟子たちと「過越の食事」すなわち「最後の晩餐」を喜んでなされたのです。また待ち望んでおられました。
さて、主イエス様が約束された「もうひとりの助け主」であられる聖霊は、今から二千年ほど前に確かに降られました。そして今もこの地上に留まっておられます。このお方は、主イエス様が約束された通り、イエス・キリストを救い主として心から信じ、口で「イエスこそ主である。」と告白する人の中に来て下さいます。
自分の罪を悔い改め、イエス様を受け入れた人には、聖霊がその人の霊の中に来て下さり、死んでいたその人の霊を新しく生まれ変わらせて下さるのです。
「新しく生まれ変わる」ことを「新生」と言いますが、それは聖霊が来て下さることによってのみ、成し遂げられるのです。
かつての私たちの霊は死んでいました。そして滅んで行く者だったのです。しかし主イエス様を信じた者には、聖霊が来て下さいます。その人の中に住んで下さるのです。そのお方はイエス様と全く同じ方(アロス・パラクレートス)であり、創造主、三位一体なるヤーヴェなる神様なのです。
使徒パウロはこのように勧めます。
『神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。』
私たちには、聖霊によって「力と愛と慎み」が、すでに与えられているのです。
またパウロは、このようにも警告しています。
『神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。』
この言葉から、聖霊はイエス様が人格をお持ちのように、人格を持っていることが分かります。悲しまれるとしたら、その反対に喜ばれることもあると言うことです。
もし、私たちの中に住んでおられる聖霊が喜ばれたとしたら、その喜びの溢れんばかりの力と愛が、私たちの霊を通して、私たちの体全体のすみずみにまで、命として、泉のごとくに湧き上がって行くのではないでしょうか。
具体的に言いますと、一切の悪い言葉を口から出すのではなく、いつもイエス様に感謝し、賛美することです。礼拝することです。不平不満を言わず、裁かず、人を赦すことなのです。
また「贖いの日」とは、イエス様の再臨される日を指しています。花嫁である教会が、花婿であられるイエス様との婚礼の日に、聖霊によって証印を押されている信徒は、みな天に引き上げられるのです。
聖霊と共に歩むことを忘れてはなりません。聖霊は、いつも聖書に書かれたみ言葉を用いて、多くのことを教えて下さいます。このお方が聖書のまことの著者なのですから。
私たちは、このお方と日々共に歩むことによって、救いの完成に近づきつつあるのです。今日はペンテコステです。聖霊様あなたを歓迎いたします。》