◇◆◇日々のみ言葉
2019年6月13日(木)
◎聖書箇所【使徒の働き12章13節~16節】
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
◎ショートメッセージ
《今日も同じ箇所からとなります。
さて、シモン・ペテロは引き続き、ヨハネ・マルコの家の門の戸をたたき続けました。ようやく兄弟たちが家の中から出て来て門を開けてくれました。兄弟たちは、門の外にペテロが立っていたので、非常に驚いたのです。
なぜ非常に驚いたのでしょうか。
彼らは、すでにあきらめていたからです。以前、使徒のゼベタイの子の兄ヤコブが捕らえられた時、教会は、本当にヤコブの解放を願い祈り続けたのです。しかし、それにも関わらず、ヤコブは解放されることなく、ヘロデ・アンティパスによって殺されてしまいました。
バプテスマのヨハネが、同じくヘロデ・アンティパスによって首をはねられた時に、ヨハネの弟子たちが、師の遺体を引き取りに来たように、あるいはエルサレム教会の最初の執事であったステパノが石打の刑に処せられた時、敬虔な仲間が彼を引き取ったように、ヤコブの遺体も、仲間の弟子たちが、引き取ったことは十分考えられることなのです。
そしてヤコブは手厚く葬られたに違いありません。もしかしたら、主イエス様が葬られたアリマタヤのヨセフの墓であったかも知れないのです。
残念ながら、そのことについては、聖書には書かれていませんから分かりかねますが、
この時点においては、まだアリマタヤのヨセフは健在です。しかしエルサレムからは追放され、別の国で伝道に従事していました。
さて、ヤコブの件の経験から、エルサレム教会は、指導者シモン・ペテロの解放を熱心に祈り続けていたのですが、兄弟たちの心には、「今回もだめかもしれない。主イエス様は助け出してはくれない。祈っても無駄かも知れない。」と言う思いがあったことは否めません。
これが人間なのです。
一度、そのような「答えられない祈り」を体験したり経験したりしますと、その観念に捕らえられてしまうのです。あるいは、その体験が染み透ってしまうものなのです。
本来は、ケースバイケースであって、すべてが神様の御心であって、私たちには到底理解することが出来ないこともあり得るのです。
私たちは、決してあきらめてはなりません。まだ結果が出ていないことは、引き続き祈り続けるべきなのです。
もちろん神様のみ心が、み旨が成されます。成就します。だからと言って、私たちの願いや思いを神様にぶつけてはならない、とは聖書のどこにも書かれてはいません。
ヤコブは殉教しました。
しかしシモン・ペテロは、救い出されたのです。それは、まだ彼の時ではなかったからです。すべての命は、主イエス様の御手の中にあります。創造主だけが握っておられるのです。》