◇◆◇日々のみ言葉
2019年8月4日(日)
◎聖書箇所【使徒の働き14章11節~13節】
14:11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちの所にお下りになったのだ。」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆と一緒に、いけにえをささげようとした。
◎ショートメッセージ
《ルステラの人々は、公用語のギリシャ語以外に、地方の方言であるルカオニヤ語を話したのです。
彼らは、知っていました。今、飛び跳ねたり走ったりしている男が、乞食であって、生まれつき足が萎えていて歩いたことがないことを。
その男がいやされたのです。何と彼の二本の足は、普通の足に見えます。当時の人々は、足まで覆われた長い上着を着ていますが、当然彼は、着物をまくり上げ、自分の足を見たはずです。なぜなら萎えた足では歩けるはずがないからです。
彼が、上着をまくり上げた時、そこには、今まで見ていた自分の足ではなく、まったく別な足がありました。人々も見たのです。
彼の目には、涙があふれると同時に、歓喜に満たされ、神様を賛美したのです。
これこそ、新しい創造の何ものでもありません。イエス様は、パウロの言葉に、彼を癒やされたのです。
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」
パウロは、イエス様のみ言葉に基づき、信仰と主の権威を持って命じたのですが、イエス様のことを、よく知らないルステラの人々には、パウロとバルナバが特別な存在として映ったのです。
それで、
「神々が人間の姿をとって、私たちの所にお下りになったのだ。」と叫び、ゼウス、ヘルメスだと勘違いしたのです。
ルステラの人々が、普段信じているのは、ギリシャ神であったことは、ここからも明白です。
この時、驚くべきことですが、パウロとバルナバのどちらかが、ルカオニヤ語を知っていたことになります。なぜなら彼らの叫んでいたことが分かったからです。
彼らは、ゼウス神殿の祭司と共に、二人の前にいけにえをささげようとしたのです。
何と言う展開になってしまったのでしょう。本来すべての栄光は、イエス様に帰されるものであるはずなのに。
主の弟子たちに。人間に。いいえ、異教の神すなわち悪魔と悪霊どもに、その栄光が奪われようとしていたのです。
このような「あやまち」は、確かにイエス様のことをよく知らない「無知」から起こったことなのですが、私たちも注意しなければならない大切な真理を教えています。
今は、父なる神様の右に座しておられるイエス様は、人を用いられます。人を通して、ご自身のみわざを成されるのです。
それゆえに、その「人」自身に注目が行きやすいのです。「人」は、イエス様の恵みを運ぶただの器に過ぎません。
私たちも、有名な牧師先生、あるいはリバイバリスト、あるいは大伝道者その「人」を見るのではなく、その背後におられるイエス様に目を留めるべきなのです。
すべての栄光は、主のものなのです。》