◇◆◇2019年8月25日第四主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書19章1節~5節】 (新約p.201上段右側)
19:1 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
◎メッセージの概要【さあ、この人です。】
《引き続きポンテオ・ピラトによる政治裁判の最終場面について学んでいます。ピラトは、アントニア要塞において主イエス様の裁判を行なっています。その要塞の前には、城壁の真下に大きな広場があり、民衆はそこから叫んでいます。
「ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」とヨハネは書き記していますが、なぜピラトはイエス様をむち打ちにしたのでしょうか。
ルカは、ピラトが群衆に「私は懲らしめたうえで、釈放します。」と、二回繰り返したことを書き記しています。
ピラトは群衆が気に入るように、そのようにしたわけですが、実はこのことも深い神様の摂理の中において行なわれたのです。
イエス様は、十二使徒に三度、「受難予告」をされました。特に三回目においては、はっきりとご自身が十字架にかけられること、そしてむち打たれることを宣告しています。
また「イザヤ書53章」には、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書かれてあって、「むち打たれる」ことが、明確に預言されています。
そして、その場面を直接目撃したペテロは、後に彼の書簡にこのように書き記しています。
『主は、ご自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と。イエス様は、すべての病、痛みを背負われたのです。
次にピラトは、ユダヤ人指導者たちと群衆にはっきりと主張します。
「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
つまり、主イエス様は無実でありながら十字架にかけられることを、父なる神様がピラトの口を通して語らせたのです。
ペテロは、イエス様は、この最後の場面だけでなく、その生涯において「罪を犯したことがない」ことと、「その口に何の偽りも見いだされない」ことを証言しています。
主イエス様と3年半にもおよぶ公生涯において、寝食を共にしたペテロが、直に体感したことを証ししているのです。
ピラトは、むち打たれ血だらけとなり、いばらの冠をかぶり、紫の衣を身につけたイエス様を、群衆の前に突き出しました。
「さあ、この人です。」
ここでも「イザヤ書53章」の預言が成就します。
『彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』と。
「さあ。この人です。」
実は、これは軽蔑し馬鹿にした物言いなのです。しかし、父なる神様は、「過越の祭」に集まった四十万人のユダヤ人たちが、見るべきお方、見上げるべきお方こそ、「この人」であることを宣告されたのです。
「イエス・キリスト」こそが、すべての人が見上げるべきお方です。褒め称え、その御元にひざまずくべきお方なのです。このお方こそが、「私はある」と言われた創造主なのです。
ヘブル人の手紙には、
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』
と書かれてあって、私たちはこの勧めを忘れてはなりません。
この世におかれている私たちには艱難があると、主イエス様は言われます。私たちが悩み苦しみ、そして落ち込む時には、決まって私たちの目が、主イエス・キリストの御顔から離れている場合が多いのです。
主イエス様は言われます。「しかし勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」
十字架において、主イエス様は圧倒的な勝利を納めました。この世の空中の権威者であった悪魔は、完全に敗北したのです。
「さあ。この人です。」
この言葉は、ピラトが語っただけでなく、私たちが唯一の救いの道を示す為の言葉でもあるのです。
真理とは、真実とは何ですか。
「さあ。この人です。」》