• 2019年11月10日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年11月10日第二主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章16節~18節】 (新約p.205下段右則)
    20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
    20:17 イエスは彼女に言われた。「私にすがりついていてはいけません。私はまだ父のもとに上っていないからです。私の兄弟たちのところに行って、彼らに『私は、私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
    20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

    ◎メッセージの概要【父のもとに上るとは?】
    《主イエス様は、最初にマグダラのマリヤにお姿を現わされました。マリヤは、墓の管理人だと思っていましたが、その方が「マリヤ」と名前を呼んだのです。イエス様は、アラム語で呼ばれ、よって「ミリアム」が正しいことになります。するとマリヤは、イエス様であることが分かって、「ラボニ」とアラム語で答えたのです。この意味は、「先生」または「主」となります。
     イエス様は、かつてパリサイ人たちにこのように話されました。
    「まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
     門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
     私たちの神様は、私たちの名前を知っておられます。そしてマリヤを呼ばれたように、私たちの名前を呼んで下さるのです。また私たちは、マリヤのようにイエス様の声を知っています。マリヤやヨハネのように実際にこの耳で聞いたことはなくても、聖霊様によってその声を聞くことが出来るからです。
     さて、マグダラのマリヤは、イエス様だと分かると、喜びのあまり、イエス様の足下にすがりつきました。おそらくかなりの時間、イエス様は彼女がそうすることを容認されたと思われます。またマリヤは、イエス様の御足から温かいぬくもりを感じたに違いないのです。
     それこそが生きておられるしるしであるからです。もし死人のように冷たかったとしたら、それこそマリヤは叫び声を上げ、恐れたに違いありません。
     さて、主イエス様は、「私にすがりついていてはいけません。」と言われました。これには三通りの意味があると言えます。
     一つは、十一弟子の所に行って、イエス様の復活の喜びを報告する為です。主が復活された喜びを、自分一人のものとするのではなく、この「喜びの知らせ」をいち早く、悲しみ嘆いている弟子たちに知らせなさい、と言うことです。
     そして次は、 目に見えるイエス様に固執することなく、聖霊様との関わりの為にです。今までは、十一使徒たちも、そしてガリラヤから付き添って来た女たちも、イエス様とは、直に接して来ましたが、その関わりの関係が変わると言うことです。
     すなわち、イエス様が天に昇られた後、約束された聖霊様が降って来られます。主の霊であられる聖霊様は、イエス様が、約束なされたように、「見よ。私は世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」と、共にいて下さることになるのです。
     そしてもう一つの理由は、イエス様が言われた「私はまだ父のもとに上っていないからです。」と言う言葉から導き出されるものです。
     それは、まことの大祭司として、天にある本物の幕屋の至聖所にはいる為と言うことであり、天にも幕屋と契約の箱があるのです。その本物の契約の箱の上に、ご自身の血潮を振りかけることによって、「永遠の大祭司」となられるのです。
     ヘブル人の手紙の著者はこのように書き記しています。
    『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』と。よってイエス様は、二回昇天されることになります。
     さて、三つ目のポイントは、イエス様がマリヤに託した弟子たちへのメッセージから考えて見ます。
    「私の兄弟たちのところに行って、彼らに『私は、私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
     この約束は、まさに弟子たちに、そして私たちに与えられた最高のメッセージです。
     まず一つは、弟子たちは「イエス様の昇天」の場面をその目で見ると言う約束です。
     イエス様が弟子たちに、「私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物だからです。」と霊的比喩を教えられた時、付き添っていた多くの弟子たちが、つまずきました。その時、イエス様は弟子たちに言われたのです。
    「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」と。
     これも預言です。十一使徒は、オリーブ山において、直に昇天を目撃することになります。
     さて、このメッセージのもう一つの素晴らしい約束とは、イエス様の父なる神様、すなわちヤーヴェなる創造主は、私たちの父となられ、また父なる神様は、私たちの神様となって下さると言う真理の宣言なのです。
     使徒パウロはこのように述べています。
    「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
     私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊と共に、あかしして下さいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難を共にしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」と。
     私たちは「神の子ども」です。神の子どもとされたのでです。今も。そして永遠に。》

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