• 2020年2月16日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2020年2月16日 第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書21章20節~23節】 (新約p.230下段右側)
    21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
    21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
    21:22 イエスはペテロに言われた。「私が来るときまで彼が生きるように、私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」
    21:23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「私が来るときまで彼が生きるように、私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

    ◎メッセージの概要【主よ。この人はどうですか?】
    《ガリラヤ湖畔における主イエス様が用意された「朝の食事」のひと時が終わった後、主イエス様とシモン・ペテロのなされた会話について、先週は学びました。
     食事の後片付けが終わり、主イエス様と弟子たちは、シモン・ペテロの家に向かいます。主イエス様の横にはペテロが歩いています。するとヨハネがすぐ後ろをついて来ます。ペテロは足を止め、振り向いて、主イエス様に質問します。「主よ、この人はどうなのですか」 ヨハネは、福音書に自分自身のことを「イエスが愛された弟子」として書き記しています。そしてヨハネが「ヨハネ」と書き記しているのは「バプテスマのヨハネ」のことになります。
     ここでヨハネは、最後の晩餐の場面に言及しています。ヨハネの福音書によりますと、
    『「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、私を裏切ります。」
     弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。
    「主よ、それはだれのことですか。」イエスは答えられた。
    「私がパン切れを浸して与える者が、その人です。」
    それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。ユダがパン切れを受け取ると、その時、サタンが彼に入った。』と書かれています。
     主イエス様の右の席には、ヨハネが、そして左側にはイスカリオテのユダがいたことが分かります。ペテロは、末席に座らせられていたことになります。
     実は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネを除いた十二使徒に取っては面白くもないことが、少し以前にあったのです。それは、「過越の祭」に巡礼する為にエルサレムに都上りをしていた時のことです。ゼベタイの妻はサロメは、イエス様の叔母に当たります。母マリヤの妹です。よって、使徒ヤコブとヨハネは、イエス様に取っては従兄弟に当たります。
     マタイの福音書によりますと、
    『ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
    「何を願うのですか」
    「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉を下さい。」
    「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲もうとしている杯を飲むことができますか。」
    「できます」
    「あなたがたは私の杯を飲むことになります。しかし、私の右と左に座ることは、私が許すことではありません。私の父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
     他の十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。』と。
     今回シモン・ペテロが主イエス様に質問した内容の中には、この二つの場面の出来事が伏線となっているのです。
    「主よ、この人はどうなのですか」
    「私が来るときまで彼が生きるように、私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」
     これが主イエス様のお答えです。私たちは、どうしても他人と比較してしまうのです。他人が成功していたり、また大きく用いられていたりしますと、やはり面白くないのです。十二使徒たちでさえ面白くなかったのですから。
     この葛藤に対して、パウロはコリント書にこのように勧めています。
    『さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
     働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
     ある人には御霊を通して知恵の言葉が、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
     同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、み心のままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えて下さるのです。丁度からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』と。
     また、主イエス様はパウロにこのような答えを与えられています。
    『「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』と。
     今与えられているものは、すべて恵みなのです。それゆえ、私たちは他の誰かと比べうる必要はないのです。なぜなら、今の時点において最善のものが与えられているからです。
     私たちが主イエス様に対してすることは、ただ一つ、それはペテロに言われた、「あなたは、私に従いなさい。」と言うことです。
     私たちがするべきことは、主イエス様に従うことです。》

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