◇◆◇2020年2月23日 第四主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書21章24節~25節】 (新約p.230下段左側)
21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
◎メッセージの概要【証しし書いた者とは?】
《ヨハネの福音書の学びも最後となります。福音書を閉じるにあたってのヨハネ自身の最後の言葉となります。
「これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。」
『これらのこと』とは、福音書すべてのことを指します。そして『私たち』とは、ヨハネ自身とエペソ教会の指導者たちを指しています。最後まで、ヨハネは自分自身の名前を明らかにはしません。
ヨハネの第一の手紙の冒頭部分を見ますと、
『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について。このいのちが現れました。御父と共にあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。』と書かれています。
ここで注目すべきことが特に二つあります。一つは、「初めからあったもの」と言うことです。もちろん主イエス様が創造主であられ、最初から存在されておられたことを述べていますが、ヨハネに取っては、生まれてから物心着いた頃には、イエス様はすでに、叔母マリヤの子である従兄弟として存在されていたのです。ヨハネの人生にとっては、初めからおられたことになります。
そしてもう一つは、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」と言う部分です。これこそまさにヨハネ自身が、幼い頃から体験して来たことなのです。
またヨハネの福音書の第一章には、次の証が書き記されています。
『言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』
ヨハネが物心ついた時から、主イエス様は間違いなく人であられました。そして「私たちの間に住まわれた」と言うことは、神様が人となってこの世界に来て下さったと言う大きな意味と、ヨハネの家族は、叔母マリヤの家族と共に深く関わっていたことを指しています。
そしてヨハネが、主イエス様の栄光を見ることになるのは、従兄弟イエス様が30才となられ、ラビとして公生涯を始められた時からとなります。
福音書の初めに、シモン・ペテロの弟アンデレと、もう一人の弟子がバプテスマのヨハネの弟子として登場します。そしてイエス様の洗礼の場面に同席するのです。
ヨハネの叔母マリヤは、バプテスマのヨハネの母エリサベツと親戚でした。とするならば、マリヤの実の妹である母サロメに取ってもエリサベツは同じく親戚にあたいするはずです。それだからこそ、ヨハネがバプテスマのヨハネの弟子になることが許されているのです。
『その翌日、ヨハネは再び二人の弟子と共に立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。
「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。
「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ午後4時であった。』
この時は、もちろんヨハネに取っては、イエス様との最初の出会いではありません。従兄弟のイエス様を、もう生まれた時から知っているのです。そして生まれた時から、兄ヤコブと共に、イエス様に愛されて来たのです。
しかし、この場面があえて描かれている理由があります。それは、救い主であられる神の御子主イエスとは、霊的において初めての出会いとなるからです。
ゴルゴタの丘において、十二使徒の中では、唯一ヨハネだけがイエス様の側にいました。
『イエスの十字架の側には、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に
「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に
「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の所に引き取った。それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「私は渇く」と言われた。イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。』と、ここでもヨハネ自身が主イエス様の死を目撃したことの証しが書き記されています。もちろん三日目によみがえられます。
最後に「イエスが行われたことは、他にもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」と締めくくっていますが、ヨハネだけが、本当に主イエス様の生涯にわたって、実の従兄弟として深く関わり、また公生涯の三年半年における、そのすべての目撃者であることを明確にしています。このことから、私たちは福音書に書かれた主イエス様の奇跡と栄光は、もしかしたら、半分、いや十分の一ぐらいしか知らないのかも知れません。そのすべてを、「主の愛された弟子」である使徒ヨハネは、体験したのです。》