◇◆◇日々のみ言葉
2020年4月12日(日)
◎聖書箇所【使徒の働き24章17節~18節】
24:17「さて私は、同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。
24:18 その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいたのを彼らに見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。ただアジヤから来た幾人かのユダヤ人がおりました。」
◎ショートメッセージ
《引き続き、パウロの弁明からとなります。
「さて私は、同胞に対して施しをし」とは、貧困で困っていたエルサレム教会に、異邦人教会から多くの献金を携えて来たことを意味しています。
本当に神様の摂理には驚くばかりです。本来ユダヤの人々は、異邦人(すなわち、この時代では、ギリシヤ人やローマ人を指す)は、忌み嫌うべき存在であって、人ではなく犬と同じように考えていたのです。
これは、神から選ばれた「選民」と言う意識から来ているのであって、それだからこそ、ある程度、民族の純血を守ることが出来たと言っても、過言ではありません。
しかし、主イエス様の救いの計画は、選民ユダヤ人のみに留まらず、すべての異邦人に向けて、門戸が開かれたのです。
主イエス様にあっては、ご自分の民であるユダヤ人も、あらゆる異邦人も、すべての人が愛すべき存在であるからです。
まさしく、主はすべての人の主であられます。
さて話を元に戻しますと、パウロによって開拓された異邦人教会は、エルサレム教会の同胞の為に、惜しみなく献金を捧げ、それをパウロと行動を共にした教会の責任者や長老たちに託したわけです。異邦人教会が、ユダヤ人教会を助ける為に。
しかし、なにもパウロ自身が直接届ける必要もなく、使いを送れば済むことでもあったはずです。
「また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいた」と言うことは、やはりパウロ自身、神様に誓願を立てていたことが明白なのです。
この為にパウロは、預言者アガボの言葉にも、また教会の長老や兄弟たちの言葉にも耳を傾けず、強引に都上りを決行したのです。
もちろん、主イエス様は、すべてのことを益として下さいます。しかし主の御心と、人の思いとは、異なる場合が多いのです。
もし、パウロが留まっていたら、カイザリヤの二年間にもおよぶ、牢獄生活はなかったとも考えられるのです。
私たちは、神様のみ言葉に、そして御心に、また人の忠告や進言には、いつも耳を傾ける姿勢を心掛けて行きたいと思います。
年を取れば取るほどに、心が頑なになって行くのではなく、幼子のような柔らかな柔軟な心を、いくつになっても持ち続けたいと願います。》