• 2020年4月19日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2020年4月19日 第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章24節~29節】(新改訳第2 版・新約p.154)
    20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らと一緒にいなかった。
    20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
    20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
    20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
    20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
    20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

    ◎メッセージ「主イエスの復活から一週間後」
    《主イエス様は、よみがえられたその日の夕方の午後五時過ぎ頃、ユダヤ人を恐れてカギがかけられていたヨハネ・マルコの二階の大広間に隠れていた十二弟子たちの所に、突然現われました。
     主イエス様は、マグダラのマリヤに、そして彼女と共に墓に来た女たちに、また使徒ヨハネと共に墓に走って来たペテロにも、その日の早朝にすでに現われて下さいました。
     また、エマオに戻る道において、クレオパとその妻マリヤが家にも現われて下さったのです。その夫婦がエルサレムに戻ると、突然、主イエス様は、部屋の中央に現われたのです。
     その時、十二使徒の一人で、デドモ(双子)と呼ばれたトマスは、その場にいませんでした。トマスがなぜその場にいなかった理由は、聖書には書かれていません。私は、これも神様の深い摂理の中に行なわれたことだと信じています。
     さて、当然トマスは、いじけてしまいます。
    「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と。
     その一週間後のことです。十一使徒たちは、「ガリラヤに行くように」と言う主イエス様の命令が伝えられていましたが、彼らは、出発しようとはしませんでした。なぜならトマスが動こうとはしなかったからです。
     しかし、一週間前とほぼ同じ時間に、同じような状況の中、彼らが夕食を囲んでいると、主イエス様は現われて下さいました。

    「平安があなたがたにあるように。」
    「トマス。あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
    「私の主。私の神。」
    「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

     ここから、いかに主は、ご自身が選ばれた十二使徒を愛しておられたかが分かります。
     トマスは疑い深い性格であると、今まで思われて来ましたが、やはり自分の目で生きておられる主イエス様の姿を見、自分の耳で主の声を聞き、自分の手で主に触れなければ、信じることが出来ないのが人間です。では、この出来事は何を意味しているのでしょうか。 主 イエス様は一人の人格さえも決してないがしろにはなさらないと言うことです。それだけではありません。主イエス様の言葉を後世に残すためでもあったのです。
    「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

    「見ずに信じる者」とは誰を指すのでしょうか。そのことについて、主はゲッセマネに行く道すがらの祈りにおいて教えておられます。
    『「私は彼らにあなたのみ言葉を与えました。私は、ただこの人々のためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします。」と。

     つまり、使徒たちを通して語られる主イエスのみ言葉を信じる者を指しています。要するに、今現在の私たちなのです。聖書に書かれた主イエス様が語られたみ言葉を信じ、救われる者は幸いなのです。
     もちろん、主イエス様は今も生きておられます。今も奇跡を成して下さいます。しかし今の私たちには、かつての十二使徒たちのように、じかに主イエス様を見たり、聞いたり、触れたりすることは出来ませんが、やがて、その時はやって来ます。やがて私たちも、二千年前の彼らと同じように、主イエス様を体験する時が来るのです。それだからこそ、「幸い」なのです。》

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