◇◆◇日々のみ言葉
2020年10月22日(木)
◎聖書箇所【マタイの福音書6章22節~23節】
6:22「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
◎ショートメッセージ
《現代訳は、
『6:22「体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が澄んでいて、困っている人を見た時、すぐに恵んでやれるほど健全であるなら、あなたの全身は明るいのですが、
6:23 もし、目が悪く、困っている人を見ても、あわれみの心を閉じるようであれば、あなたの全身は真暗いです。その暗さは、どれほどひどいものでしょうか。」』と、書かれています。
新改訳聖書ですと、意味が不明なのです。目が見えないと言うことは大変なことです。それだからこそ、旧約聖書に預言されたメシヤの成すべき大きな御わざが、盲人の目を開くことなのです。
イザヤ書には、
『心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ書35:4~35:6)』と書かれている通りです。
主イエス様は、ここで健常者と盲人との比較をしているのではないからです。つまり目が見える人が、見て見ぬ振りをすることを、言われているのです。
主イエスは、律法学者に、「たとえ」を用いて教えられたことがありました。
『「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書10:30~10:37抜粋)』と。
ここに登場します「祭司」も「レビ人」も、ユダヤ人の中においては、宗教的に名門の血筋の者です。しかし、彼らは見て見ぬ振りをすると言うわけです。これは「たとえ」ではありますが、要するに、レビ族から任命される祭司や祭司長たちが、実際に行なって来たことを、主は明確にしておられるのです。》