• 2020年11月15日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【使徒の働き7章16節~36節】
    7:16 彼らはシェケムに運ばれ、かつてアブラハムがいくらかの銀でシェケムのハモルの子らから買っておいた墓に、葬られました。
    7:17 さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、
    7:18 ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。
    7:19 この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。
    7:20 モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、
    7:21 ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。
    7:22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。
    7:23 モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。
    7:24 そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。
    7:25 モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。
    7:26 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』
    7:27 すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。
    7:28 昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』
    7:29 このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。
    7:30 四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました。
    7:31 その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。
    7:32 『私は、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは震え上がり、あえて見ようとはしませんでした。
    7:33 すると、主は彼にこう言われました。『あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。
    7:34 私は、エジプトにいる私の民の苦しみを確かに見た。また彼らのうめきを聞いた。だから、彼らを救い出すために下って来たのだ。今、行け。私は、あなたをエジプトに遣わす。』
    7:35 『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。
    7:36 この人が人々を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年の間荒野で、不思議としるしを行いました。

    ◎メッセージ【ステパノの弁明Ⅱ(モーセ)】
    《イスラエルの歴史を踏まえて、ステパノは主イエスこそ、神がアブラハムに「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束された「祝福の源」であることを証しました。
     そして次には、彼らが最も尊敬している「神の人モーセ」は、来たるべきメシアのひな形であることを証明して行くのです。
     モーセが誕生した頃のことです。すでにヨセフを知らない新しい王朝が起こっていました。ファラオは、「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」と命ずるのです。
     モーセの母は、ついにモーセを隠しきれなくなり、ナイル川に籠に入れて流します。すると王女の一人がその籠からモーセを取り出し、自分の子として育てるのです。主イエスも同じ境遇を辿ります。ヨセフは主イエスを自分の子として育てるからです。
     モーセが生まれた時に命を狙われたように主イエスも命を狙われます。
     バビロンからやって来た、三人の博士たちが帰って行きますと、主の使いが夢でヨセフに現れて言いました。
    「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」と。
     モーセが40歳になった時、彼は自分が誰であるのかを知ることになります。そして同胞イスラエル人を釈放する為に、動き出すのです。しかしイスラエル人はモーセを、出エジプトに導くメシヤとは信じようとはしないのです。モーセはミデヤン人の地に逃亡し、そこで40年間羊を飼うことになります。そして、ついにシナイ山にて召命を受けます。さて、主イエスも同じように、故郷ナザレにおいては、誰からも信じてもらえなかったのです。
    「この人はこういうことをどこから得たのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも一緒にいるではないか。」と。
     さて、モーセが救い主のひな形であることの最大の特徴は、神様がモーセの手を通して、奇跡と不思議としるしを行なったことにあります。主イエスも、三十歳になって、多くの奇跡と不思議としるしを行なわれました。
     しかし、出エジプトしたイスラエル人は数々の奇跡を見ながらも、真の神様を信じることが出来ませんでした。それだからこそ「金の子牛」を造り、拝んだのです。
     主イエスの場合にも、三年半にわたる公生涯において行なわれた多くの奇跡やしるしや不思議を直に見ても、ユダヤの指導者たちは信じることが出来なかったのです。
     それゆえ主イエスは、ステパノを通して、再三にわたり、ご自身こそがメシアであることを証ししているのです。彼らが信じているモーセは、ご自身のひな形であることを明確にしているのです。
     奇跡、しるし、不思議は素晴らしいことです。しかし、たとえそれを直に目にしたとしても、救いにはつながらないことを、聖書は明確に書き記しています。人が救われることこそが、最大の奇跡です。そして先に救われた私たちこそが、その奇跡である証拠であり、生きた証しなのです。そればかりではありません。ステパノのように、私たちには、その人にしか出来ない使命が、主イエスから与えられているのです。》

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