◇◆◇日々のみ言葉
2021年3月9日(火)
◎聖書箇所【マタイの福音書10章38節~39節】
10:38「自分の十字架を負って私について来ない者は、私にふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、私のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。
主イエス様が、この事について再度教えられますのは、ピリポ・カイザリヤにおいてです。その時には、シモン・ペテロが「メシア(キリスト)告白」をすることになります。
その後すぐに主イエス様は、第一回受難予告をなされるのです。その場面は三つの共観福音書のすべてに描かれていますが、十二使徒を派遣する時に、この教えをされたことは、マタイの福音書だけに書き記されています。
昨日にも、書きましたように、この時点において、弟子たちには主イエス様の言われている意味が全く理解出来ませんでした。
「自分の十字架」とは何でしょうか。
それは、私たちが経験する悲しみや苦しみ、あるいは様々な境遇を指しているのでしょうか。例えば、ヨハネの福音書の最後の方に登場します、「生まれつき目の見えない青年」のように、盲目で生まれたことが「十字架」でしょうか。いいえ、違うのです。
十字架とは、ローマ帝国が考え出した最も残酷な死刑のことです。すなわち「死」そのものなのです。主イエス様は、今から二千年ほど前に、確かに十字架に掛かって死んで下さいました。しかし、それは自分の罪の為ではなく、世界中のすべての人々の罪の為に死んで下さったのです。
よって、「自分の十字架」とは、自分の死を指します。つまり自分に死ぬことなのです。
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失う」こととは、何でしょうか。
それは、自分の人生を自分自身で好き勝手に生きると言うことであり、そうすると「永遠のいのち」を失うことになるのです。
そして、
「私のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとする」と言うことは、主イエス様の為に、自分の人生を捧げて生きて行く者は、「永遠のいのち」を得ることになると言うことです。
よって、主イエス様の言われた真意とは、あなたや私は、誰の為に生きるのか?と言う問いかけであって、それには二つの選択肢しかないことになります。
一つは、多くの人々が行なっていますように、自分の人生を自分の思うがままに、好き勝手に生きることです。
そしてもう一つは、自分の人生を主イエス様にすべてを捧げ、主イエス様の為に生きることなのです。
中途半端はありません。中庸はないのです。主の弟子となる為には、選ぶべき道は、選択肢は一つしかありません。
すなわち、自分に死に、主イエス様の為に生きることであって、そしてそれは、主イエス様と共に生きることなのです。》