• 2021年4月11日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章24節~29節】
    20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
    20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
    20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
    20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
    20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
    20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

    ◎メッセージ【復活から一週間後の出来事】
    《十字架にかけられる十数時間前に、ゲッセマネに向かう時に、主イエスは弟子たちにこのように言われました。
    「あなたがたはみな、今夜私につまずきます。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかし私は、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
     そして三日目の「週の初めの日」の早朝に、主はよみがえります。そのよみがえられた瞬間は、実は誰も見てはいないのです。
     御使いが降りて来て、ローマ兵の見張りの前で、封印された石のふたを蹴って転がした時には、もうすでに主イエスは墓の中にはおられなかったのです。ローマ兵は、必死に逃げ出します。御使いは、墓にやって来たマグダラのマリアと女たちに主イエスの伝言を伝えます。
    「恐れることはありません。行って、私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます」と。
     十二弟子の一人で、デドモと呼ばれたトマスは、主イエスが来られたとき、彼らと一緒にはいませんでした。その理由をヨハネは書き記してはいません。
     これはあくまで私個人の推測にしか過ぎませんが、考えられる理由の一つとして、トマスは、あえてベタニアのマルタの家に残ったということです。それは、『イエスの死体を弟子たちが盗んで行った』と言ううわさが広まっていたからです。
     そしてトマスが戻って来ます。するとその場に居合わせた人々が、いっせいに彼に「私たちは主を見た」と言うのです。
     それを聞いたトマスはいじけてしまいます。トマスは、主イエスの最初の命令を、直接聞いています。女たちへの伝言をも聞いています。本来なら、ガリラヤに行けば必ず会えるのですから、エルサレムを出発すべきなのです。それにもかかわらず、トマスはそこを動こうとはしないのです。
     そして一週間が経ちました。先週と同じ状況下の中で、主イエスが突然やって来ます。
    「平安があなたがたにあるように。あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」
    「私の主、私の神よ。」
     なぜ主イエスはあえてトマスがいない時に現われたのでしょうか。それには、やはり深い神様の摂理があったと思われるのです。特に主イエスがトマスに向けて語られた言葉こそ、トマスをこの状況下に置き、現在の私たちにも向けて、語られたのではないでしょうか。
    「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」と。
     ヘブル人書の著者はこう勧めています。
    『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです。』
     また、シモン・ペテロもこう勧めています。
    『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。』と。
     私たちは真に、「見ないで信じる幸いな者」なのです。》

Comments are closed.