◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書21章1節~8節】
21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
◎メッセージ【ガリラヤ湖にて(八日目から後の出来事)】
《ヨハネの福音書の20章と21章の間には、何日かの日数が経過しています。しかし8日目の夕方、トマスに主イエスが現われた後、夜が明けると、十一使徒たちはガリラヤに向けて出発したと思われます。
エルサレムからガリラヤのカペナウムまでは、片道120キロ近くあります。大人の足で一日に歩ける距離は40キロほどですので、健脚の人であっても3日はかかります。ガリラヤにおいては、主は彼らの前にすぐには姿を現わされませんでした。
さて21章では、弟子たちはガリラヤ湖畔にいます。全員ではありません。『シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子』と、七人しかいないのです。しかし、ヨハネは使徒の名前を省略したのでなければ、この内訳は使徒が五人で、他に二人の弟子がいたことになるのではないでしょうか。それでは後の六人はどこにいるのでしょうか。考えられることは、あとの六人は、他の場所において待機していたと言うことです。一つは指示された山、もう一つはペテロの家です。そして、漁に行く五人は、残りの六人がどこにいるのか知っています。主イエスと朝の食事をする時には、十一使徒全員が集まっていたことは間違いないからです。
マタイの福音書には、こう書かれています。
『さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。』と。
これは十一使徒の中に疑う者がいたのではありません。この時、同行していた他の弟子たちの中にいたのです。ここで十一弟子は、使徒として再任命を受けることになります。
さて、食べ物が尽きた時に、ペテロは「私は漁に行く」と言い、自分の持ち舟を出したのです。同行したのは、ヤコブとヨハネ、トマスとナタナエルと二人の弟子でした。彼らは夜通し試みたのですが、何も捕れませんでした。すると、
「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」
「ありません。」
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」
その言葉を聞いて、網を下ろすと、おびただしい数の魚が掛かったのです。
実は、この奇跡の体験を、三年半ほど前に、ペテロと弟アンデレ、ヤコブとヨハネも経験しています。この事を、ヨハネは思い出したのです。
「主だ」
ペテロはその声を聞くと、湖に飛び込んで岸まで泳いで行きます。ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行きます。そして、主イエスを囲み、また他の場所から六人の使徒たちも合流し、焚き火を囲みながら楽しい食事のひと時が始まります。
ここから、私たちは何を学ぶのでしょうか。それは、主イエスが「山上の垂訓」において、約束されたことを思い起こさせる為でもあるのです。
『「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」』と。
私たちが、まず最初に求めなければならないのは、「神の国と神の義」なのです。神の国とは、主イエス様が治めている国のことです。すなわち主イエス様ご自身です。
そして「神の義」とは「十字架」です。主イエスは言われました。『「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」』と。
誰でもです。私たちには、一人一人に使命が与えられています。そして一人一人が違う存在であるように、役割も違ってきます。大切な事は、今与えられている状況と環境において、主の証し人となることなのです。》