◎本日の聖書箇所【使徒の働き9章23節~31節】
9:23 かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24 彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。
9:25 そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。
9:26 エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
9:27 しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。
9:28 サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。
9:29 また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。
9:30 それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。
9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。
◎メッセージ【エルサレムに着いて】
《先週の続きとなります。最初にルカは、「かなりの日数がたち」と書き記しています。このことについて、後にパウロはガラテヤ書簡にこのように証しています。
『私は使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。』と。ここから、「かなりの日数」とは、三年であることが分かります。まずサウロはアラビアにでかけます。伝承では、サウロは旧約聖書を最初から調べ直して、ダマスコ途上にて遭遇した主イエスこそ、メシアでありモーゼに約束された「預言者」であることを確信したと言われています。そしてそれから、ダマスコのアナニアの所に戻るのです。そして、本格的な伝道を始めサウロを師と仰ぐ新たな弟子たちが起こされます。そんな時に事件が起こります。
当時のダマスコは、ローマ帝国の所領でありましたが、ダマスコもナパデヤ王国に属し、アレタ王が統治していたのです。そしてその代官と、ダマスコ在住のユダヤ人たちが、結託してサウロを殺害しようと企てました。しかしその計画が聖霊によってサウロに啓示され、彼の弟子たちが、城壁の窓から、かごに乗せて吊り降ろし、ダマスコから脱出させたのです。
このことを、コリント人への手紙の中に証しています。
『ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。』と。
そしてエルサレムに向かいます。エルサレムでは、すでに三年もの月日が経っていますが、それでもサウロはエルサレムの信徒たちからは、信用されずまた恐れられていました。
しかしダマスコにアナニアが存在したように、エルサレムにも主イエスはサウロの助け人として、「バルナバ」を用意されていたのです。「バルナバ」とは、ニックネームであって、「慰めの子」と言う意味です。そして本名は「ヨセフ」なのです。
伝承では、ルカの福音書において、主イエスが新たに選ばれ派遣した72人の弟子の中の一人であったと言われています。そして、イスカリオテのユダの代わりに使徒を補充する必要があった時のことです。シモン・ペテロは、使徒たちは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立て、くじをひきました。すると、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられたのです。この「バルサバ」こそが「バルナバ」であると言うことです。なぜなら、どちらもニックネームであって、本名は「ヨセフ」なのです。彼は二度における大きな挫折を味わったことになります。
すべてが順風満帆で、何もかも上手く行っている人には、人の苦しみや悲しみは分かりません。試練を経験した者にしか、実は同じような境遇に置かれている人々を慰めることが出来ないのです。バルナバは、誰からも相手にされなかったサウロを引き受けます。ここに素晴らしい伝道チームが誕生したのです。
あなたや私が今まで体験し、また経験して来たことは何一つ無駄ではないのです。それは、あなたや私にに取っては、とてもつらく、また苦しいことであったかも知れませんが、しかし、私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かり、死んで下さった主イエスの苦しみや悲しみに比べるとしたら、どうなのでしょうか。
預言者イザヤはこのように言っています。
『彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。』と。
主イエス様は、悲しみも病も、そして痛みも死の苦しみも知っておられます。それだからこそ、バルナバのように、私たちを慰めることが出来るのです。
また、そればかりではありません。実は、私もあなたも「バルナバ」なのです。私たちも、主イエスにあって、主イエスと共に、人を慰めることが出来るのです。バルナバのように。 サウロはエルサレムに着いて、初めてバルナバと出会いました。そして、その為には、三年もの月日が必要であったのです。》