◇◆◇日々のみ言葉
2021年7月20日(火)
◎聖書箇所【マタイの福音書16章24節~27節】
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちと共に、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」
◎ショートメッセージ
《ピリポ・カイザリアにおいて、主イエスはご自身が誰であるのかを公に弟子たちに示されました。そしてその時から、主イエスは、イエス・キリストとなったのです。
マタイは、あえて、イエスからイエス・キリストに呼び変えて掲載していますが、このお方が真の意味として、キリストになるには、十字架と身代わりの死とよみがえりを通らなければなりませんでした。その期日が刻々と近づいています。
主は言われます。
「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」と。
弟子たちは、この時、すでに三年以上、仕事も故郷もあるいは家族をも置いて、主イエスに従って来たのです。なのになぜ、今更、そして尚更に、主イエスは厳しいことを言われるのでしょうか。
それは、やがて「主の道」は、大きな迫害に遭うからです。彼らには、まだこの時点でこの後、何が起きるのかは、まだ隠されています。しかもこの時には、主イエスの評判は、パレスチナ全域にわたって、最高潮にも達していたのです。
現代訳は、
『その時、イエスは弟子たちに言われた。「誰でも私の弟子になりたいなら、古い自我を捨て、恥と苦しみと死を意味する十字架を背負い、私に従って来なさい。」』となっています。
「十字架刑」とは、ローマ帝国反逆罪を犯した者に、植民地の住民たちに、見せしめとして、執行される最も残酷な刑罰です。刑が執行された罪人の最後の死因は窒息死です。
呼吸をする度に、十字架にくくりつけられた罪人の手足に全体重がかかって、犬釘の激痛が伴うのです。それが「十字架」なのです。
主イエスが言われた「十字架を背負う」と言うことは、文字通りの意味ではありません。それは比喩を含んでおり、常に私たちの身代わりとして掛かって下さった、「主イエスの十字架」を見上げ、そして十字架を心の中に、かかえて生きることなのです。》