◇◆◇日々のみ言葉
2021年12月17日(金)
◎聖書箇所【マタイの福音書25章31節~40節】
25:31「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、私の父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、私が空腹であったとき、私に食べる物を与え、私が渇いていたとき、私に飲ませ、私が旅人であったとき、私に宿を貸し、
25:36 私が裸のとき、私に着る物を与え、私が病気をしたとき、私を見舞い、私が牢にいたとき、私をたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです。』」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からです。「羊と山羊」のたとえからの学びの二回目となります。
「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
主イエスが言われたのは、「千年王国」の始まる時ではありません。このたとえは、明らかに最後の「白い御座のさばき」の描写です。
ヨハネの黙示録によれば、
『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。(黙示録20:11~ 20:12)』と書かれています。
もし、主イエスが言われた「羊と山羊」のたとえが、教会であったり、あるいはクリスチャンであったとしたら、どうなのでしょうか。「羊飼い」であられる主イエスが、信徒たちを、羊と山羊に分けたとしたら。
羊には、「さあ、私の父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と言われます。
しかし山羊には、「のろわれた者ども。私から離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」と言われるのです。そして、その基準は「行ない」と言われるのです。
いいえ。もし、そうであるとしたら、主イエス様の十字架と、流された尊い血潮は無駄であると言うことになります。
「救い」は、イエス様を信じるだけでなく、行ないが伴うとしたら、主の十字架と血潮だけでは目盛り不足となってしまいます。
よって、ここで言われたことは、最後の白い御座のさばきであって、私たち主を信じる者は、被告席ではなく、傍聴席にいることを、私は確信しています。》