• 2021年12月19日クリスマス礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書2章8節~20節】(新約p.110下段右側)
    2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
    2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
    2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
    2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
    2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
    2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
    2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
    2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせて下さったこの出来事を見届けて来よう。」
    2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
    2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
    2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
    2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
    2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

    ◎メッセージ【救い主の生まれた意味とは?】
    《「その地方」とは、ベツレヘム郊外のことです。羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた所へ、御使いガブリエルが現われます。
    「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
     当時、罪人や取税人と羊飼いは、ユダヤ人であったとしても、ユダヤ人会堂に入ることは許されず、また安息日の礼拝にも、参加することは出来ませんでした。しかし神様は、正統的なユダヤ人ではなく、虐げられている「羊飼い」たちの所へ、御使いを送られたのです。
    「この方こそキリストです。」
     羊飼いたちは、この意味を知っていました。キリストとは「メシア」のことで、「油注がれた者」と言う意味です。メシアを本当に待ち望んでいたのは、ベツレヘム郊外にいた羊飼いたちであったと言うことです。もしかしたら、メシアがベツレヘムで生まれる預言を知っていたのかも知れません。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたから私のためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」と預言者ミカは、紀元前700年頃に預言しています。
     羊飼いたちは、すぐにも行動を起こします。
    「さあ、ベツレヘムまで行って主が私たちに知らせて下さったこの出来事を見届けて来よう。」
     羊飼いたちは、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てます。そして彼らは礼拝したのです。クリスマスとは、キリストをミサ(礼拝)すると言う意味です。
     さて、救い主の生まれた意味を、共に考えて見たいと思います。私たち人間は、死ぬことと、死後に裁きを受けることが定められています。しかし、人は死ぬ為に生まれて来るのではありません。本来ならば、神様と共に歩む幸せな人生が約束されていたはずです。しかし、罪が入り込み、その結果死が入って来ました。その罪の問題を解消する為に、そして死を打ち破る為に主イエスは生まれて下さったのです。すなわち、主イエスは死ぬ為に生まれたのです。しかもローマ帝国が考え出した最も残酷な刑である十字架にかかって死ぬ為に。
     ヘブル人書の著者は、このように定義づけています。
    『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言って良いでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。キリストは、ただ一度、ご自身をいけにえとして罪を取り除く為に来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負う為に一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負う為ではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いの為に来られるのです。』と。
     そして、もう一つの理由は、神様がまことの人になられたと言うことです。神様は、全知全能のお方です。しかし、ご自身が人とはどのようなものなのか、実際に体験したことはなかったのです。主イエス・キリストを通して、初めて人を体験されたのです。
     イザヤはこう預言します。『彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。』と。
     主イエスは、悲しみを知っておられました。育ての父であったヨセフの死を看取ったのです。そして病を知っておられました。主イエスは、頭痛も腹痛も高熱も知っておられたのです。喉の渇きも空腹も体験されたのです。そればかりではありません。十字架の苦しみも、また私たちの為に「死」をも体験して下さったのです。
     ヘブル人書の著者はこのように証ししています。
    『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。』と。
     私たちの主イエスは、救い主であると同時に清め主、いやし主、慰め主であられます。神様は主イエスを通して人を体験されました。今度は私たちが、神様はどのようなお方であるかをぜひとも体験すべきなのです。なぜなら、『イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じです。』と、ヘブル書著者が証ししたように、このお方は、いつまでも変わらぬお方であり、私たち主を信じ従い求める者には、その御顔を現わして下さるのです。》

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