• 日々のみ言葉 2015年7月20日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年7月20日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書2章21節】

    2:21 「誰も、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。」

    ◎ショートメッセージ

    《江戸時代において借金だらけで、つぶれる寸前の会津藩を建て直すことに成功し、名君と呼ばれた上杉鷹山公は、一番下に着た着物は、継ぎはぎだらけであったことは、有名である。また一食に一汁一菜と、藩主自ら倹約に励んだのである。
     主イエスは、バプテスマのヨハネの弟子たちの質問に対して、ヨハネがかつて自分の弟子たちに教えた「花婿」の話を持ち出して教えると共に、次に二つのたとえを話された。その最初のたとえが、「着物の継ぎはぎ」の話である。主が言われた「真新しい布ぎれ」とは、何であろうか。それは主イエスの教えである。かつてカペナウムのユダヤ人の会堂(シナゴーク)において、主は安息日に、悪霊につかれた人を解放し、悪霊を追い出したのであった。その時、そこに居合わせた人々はこのように論じ合ったと、マルコは書き記している。「これは。どうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊でさえ戒められる、すると従うのだ。」また、人々は主イエスの教えに驚いたとある。それは主イエスが、律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられたからである。ここから、「古い着物」とは何かが、推測できる。それは律法学者の教えである。律法学者はおもに、口伝律法について教えていた。バプテスマのヨハネの弟子たちの主イエスへの質問は、こうであった。「私たちや、パリサイ人たちは断食するのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。」その時、彼らの師であるヨハネは、ヘロデ・アンティパスに捕らえられていた。よって師ヨハネの釈放のための、祈りの断食であった。またパリサイ人は、週の二日すなわち月曜日と木曜日に断食していた。バプテスマのヨハネの弟子たちは、なぜか律法学者とパリサイ人の断食を例にたとえた。しかし主イエスは、その断食を全く無に等しいものであると断言しているのである。「真新しい布ぎれ」で古い着物の継ぎをすることは意味のないことである。なぜなら「真新しい布ぎれ」は、水にさらしてはおらず、水に濡れると縮み、弱くなっている古い着物を引き裂いてしまうからである。よって「真新しい布ぎれ」で「真新しい服」を作るべきである。古い着物は破棄すべきであるということだ。また「真新しい布ぎれ」とは、新しい契約を指す。主イエスの流された尊い血潮による新しい契約である。「古い着物」とは、旧約を指す。それはモーセによって結ばれたシナイ契約である。すなわち「律法」である。主イエスは律法を破棄するのではなく、成就するために来られた。このお方だけが、律法を完全に守られたのだ。律法とは、人間に「罪」を啓示するものであった。だれ一人として罪を犯さぬ者はいない。人は自分の罪の為に裁かれ、地獄に行くこととなる。しかし罪を何一つ犯されなかった方が、身代わりとして十字架に架かられ、死んでくださったのである。今、私たちは、まさしく「真新しい着物」の時代に生かされている。しかしだからと言って、「旧約聖書」が、不必要なことはない。そこには、まだ成就していない多くの預言と啓示が書き記されている。また新約聖書を通して、私たちは旧約聖書を読むべきである。そこには、私たちが同じあやまちを犯さないように、教訓が書き記されている。今は恵みの時、救いの時である。いつの日か、「真新しい真っ白な衣」を着る日が来ることを思い描いて、今日一日も主と共に歩みたいものである。》

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