◎本日の聖書箇所【使徒の働き19章32節~40節】(新約聖書p.275上段左側)
19:32 人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。
19:33 群衆のうちのある者たちは、ユダヤ人たちが前に押し出したアレクサンドロに話すよう促した。そこで、彼は手振りで静かにさせてから、集まった会衆に弁明しようとした。
19:34 しかし、彼がユダヤ人だと分かると、みな一斉に声をあげ、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ほど叫び続けた。
19:35 そこで、町の書記官が群衆を静めて言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。
19:36 これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。
19:37 皆さんは、この人たちをここに連れて来ましたが、彼らは神殿を汚した者でも、私たちの女神を冒瀆した者でもありません。
19:38 ですから、もしデメテリオと仲間の職人たちが、だれかに対して苦情があるなら、裁判も開かれるし地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。
19:39 もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。
19:40 今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動を弁護できません。」こう言って、その集まりを解散させた。
◎メッセージ【町の書記官の仲裁】
《先週の続きとなります。群衆は、それぞれが違ったことを叫んでいました。パウロは、ガイオとアリスタルコを取り戻しに劇場に入ろうとしましたが、弟子たちは彼の身の安全の為に、阻止したのです。また、親しい友人となったアジア州の高官から使いが来て、劇場に入って行かないように、と懇願され、やむを得ずパウロは、そこに留まったのです。
実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかったとあります。かつて、これと同じようなことが、聖都エルサレムにおいて行なわれました。その時、青年パウロは、もしかしたらその場から少し離れて、ナザレのイエスの成り行きを見ていたのかも知れません。
さて、群衆のうちのある者たちは、ユダヤ人たちが前に押し出したアレクサンドロに話すよう促しました。そこで、アレクサンドロは手振りで静かにさせてから、集まった会衆に弁明しようとしたのですが、彼がユダヤ人だと分かると、事態はさらに悪化して来たのです。 聖書には、アレクサンドロと言う人物は二人しか出て来ません。一人目は、主イエスの十字架を代わりに担いだクレネ人シモンの息子です。そして、もう一人がテモテの手紙に書かれた、背教者となったアレクサンドロです。『銅細工人のアレクサンドロ』とも書かれていますから、彼がエペソからやって来たことは、間違いありません。
さて、この時に「町の書記官」が立ち上がります。この書記官とは、市議会を召集し、時として議長を務め、その決定を布告するエペソ第一の行政官で、市当局とエペソにあるローマの州行政当局の間の連絡官も務めました。また、彼は「アジヤ州の高官(アシアルケース)」の一人であった可能性がきわめて高く、これは、アジヤ州の諸都市の一流の人々に与えられる称号だと言われています。彼の弁明は、まさに的を射ており、群衆全員が十分に納得出来るものであったのです。彼の統率力、そして指導力には目を見張るものがあります。
さて、ここから私たちは何を学ぶべきでしょうか。パウロはこう勧めています。
『最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)』と。
私たちは、この世に置かれています。そしてこの世の常識の中で生かされています。クリスチャンだからと言って常識を無視することは、あまり良いことではありません。大切なことは、常識を踏まえた中で、世の光として、地の塩として、主イエスの証し人となって行くことです。非常識な人間の声に、誰が耳を傾けると言うのでしょうか。証しとは、言葉はもちろんですが、その人が語る言葉と同じ生き方をしているかどうか、信仰を持って歩んでいるかどうかが問われているのです。》