◎本日の聖書箇所【使徒の働き21章1節~6節】
21:1 私たちは、彼らと別れて船出した。コスに直航し、翌日ロドスに着き、そこからパタラに渡った。
21:2 そこにはフェニキア行きの船があったので、それに乗って出発した。
21:3 やがてキプロスが見えてきたが、それを左にして通過し、シリアに向かって航海を続け、ツロに入港した。ここで船は積荷を降ろすことになっていた。
21:4 私たちは弟子たちを探して、そこに七日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。
21:5 滞在期間が終わると、私たちはそこを出て、また旅を続けた。彼らはみな、妻や子どもたちと一緒に町の外まで私たちを送りに来た。そして海岸でひざまずいて祈ってから、
21:6 互いに別れを告げた。私たちは船に乗り込み、彼らは自分の家に帰って行った。
◎メッセージ【第一回目の警告】
《ミレトスにおいて、パウロ一行はエペソ教会からやって来た長老たちと別れて、再び船出をしました。船は「コス」にまず直航します。そして、翌日「ロドス」に向かいます。
「ロドス」とは、「ばらの島」という意味で、エーゲ海の最も東寄りにあるドデカネス群島最大の島です。さらに「パタラ」に渡ります。パタラとは、小アジヤ南西部にあるルキヤ州の重要な港町の一つです。そこで船を乗り換え、フェニキヤ行きの船に乗って出発します。キプロス島を左によけて、そのまま一直線にツロに無事に入港します。「ツロ」とは、「岩」という意味で、最も有名なフェニキヤの港町のことです。船はそこで積み荷を降ろします。
ここで、パウロ一行は、弟子たちを探したとあります。さて、ツロに住んでいる主にある兄弟姉妹をどのようにして探したのでしょうか。やはり、聖霊様の導きではないでしょうか。 パウロはツロの兄弟たちの家に宿泊し、多くの教えを伝えたのではないでしょうか。
さて、『彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。』とあります。これは、紛れもなく聖霊様による警告です。
ミレトスにおいて、パウロはエペソの長老たちに、このように語りました。
『「ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」』と。おそらく、これと同じようなことを、ツロの聖徒たちにも語ったに違いありません。パウロ自身は、「御霊に縛られてエルサレムに行く」ことを強調していますが、果たして本当にそうであったのでしょうか。御霊の思いと導きは、パウロの思いと願いとに一致していたのでしょうか。ツロの人々は、繰り返したのです。このことからも、聖霊の思いとパウロの思いが異なっていたことが分かります。しかし、パウロは、ツロの人々の言葉を受け入れようとはしませんでした。その思いの中には、異邦人の教会の指導者たちと、「エルサレム教会に献金を携えて直接届けたい」と言う純粋な思いがあったかも知れません。しかし、パウロ自身が開拓した異邦人教会の指導者を連れてエルサレムに上ることに、彼の中に勝利の凱旋と言う「おごり」や「高ぶり」があったのではないでしょうか。
箴言の著者と言われるソロモンはこう述べています。
『人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは【主】から来る。人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。』と。
私たちも自分の思い、あるいは自分の計画と神様の思い、あるいは神様のご計画が一致しているようで、実は少しずれていたと言うことはないでしょうか。案外、私たちが自分の我を通す時、神様に尋ねたり、あるいは人の忠告に耳を傾けないことが多いのではないでしょうか。助け主である聖霊様は、直接に示される場合もありますが、時には、人を用いて示されることもあります。今回のツロの人々の忠告は、まさにそれだったのです。》