• 日々のみ言葉 2015年8月7日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月7日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書3章25節】

    3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

    ◎ショートメッセージ

    《「家」とは何であろうか。一番最初に私たちに思いつくことは、「家庭」である。アメリカは離婚大国であるが、それに倣い近づけと言わんばかりに、日本においても離婚は増え続ける一方であり、減少したという報告を、まだ聞いたことがない。「離婚」こそが、悪魔の最も成功しているミッションであるかも知れない。

     離婚によって、一番傷を被るのが子どもたちであることは、今も昔も変わらない。また、たとえ離婚までは行かなくとも、毎日、家庭で、父親と母親が怒鳴りながら言い争いをしていたとしたら、その家もやがては悲劇を迎えることは、明白である。そんな悲しい結末のニュースを、どれほど私たちは毎日のように、耳にしていることであろう。
     
     どこの家庭においても、主イエス・キリストの臨在は、絶対に必要である。もし、そこにたった一人でも、たとえ幼い子どもであったとしても、主イエスを信じる者が存在していたとしたら、やがてその場所に、神のご栄光が現われて、そこに「神の国」が形成されることになる。なぜなら、主イエスを救い主として心から信じ、口で告白した者は、救われるからである。救われた魂には、その霊の中に、主イエスの霊でもあられる聖霊様が、共に住んでくださる。と言うことは、その人は、まさしく主イエス・キリストの臨在を、神の臨在を運ぶ器となって、「世の光」であり、「地の塩」なのだ。次のみ言葉の通りである。

    『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録 3:20 )』

    「家」という言葉から、次に思いつくのは何であろうか。主イエスは、「シュロの祝日」の日、エルサレム入場の直後に「宮清め」をされた時に、このように言われた。

    『「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる、と書いてあるではありませんか。」(マルコの福音書11:17) 』

     主イエスが言われる「私の家」とは、エルサレムの第三神殿(ヘロデ王による神殿)である。今の時代では、教会を指す。もし主のお体である「教会」が、「家」が分裂したとしたら、その「教会」は、今後、立ち行くことができるであろうか。プロテスタントの諸教会は、何度も何度も分裂を繰り返して来た。僅かばかりの教理の違い、「ぶどうの根」ではなく、枝葉のことで、互いに正しさを主張し、裁き合いばかりして、挙句の果ては分裂、すなわち離婚となるのである。一番悲しまれているのは、主イエス様であり、そして聖霊なる神様(御霊)である。
     それだけではない。「カトリック教会」も、「ギリシャ正教」も、同じく主のお体であり、家なのである。

     今、一番必要とされていることは「和解」である。「和解」することは、「赦し合う」ことである。「赦し合う」こととは、互いの違いを「認め、受け入れる」ことである。このことは、崩壊した家庭においても、また分裂してしまった主イエスの家(教会)においても、当てはまることは、間違いない。

    『家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。』》

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