◇◆◇日々のみ言葉
2025年4月14日(月)
◎聖書箇所【第Ⅱコリント人への手紙3章17節~18節】
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載いたします。
『3:17 主は命を与えて下さる御霊であって、主の御霊のおられる所には自由がある。
3:18 私たちクリスチャンは、心に覆いなどを掛けてはいない。主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと進み、主と似た者とされて行く。これは、御霊であられる主がして下さるのである。』
17節において、パウロの伝えたいことは何でしょうか。私たちの主は、間違いなくイエス・キリストです。それなのに、パウロは、「主は御霊です」、あるいは、「主は命を与えて下さる御霊」であると言うのです。これは、かなり難しい教理だと思うのです。
主イエスは、栄光の体に変えられてよみがえられました。今は、天において父なる神様の右の座に座しておられます。主イエスは、明らかに、かつての肉体の代わりに「栄光の体」をお持ちです。となりますと、偏在は出来ないことになるはずです。
しかし、主イエスは、弟子たちにはっきりと約束されました。
『「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」(マタイ28:20後半』と。
この言葉は、偏在を約束されたことになるのです。主イエスが、オリーブ山において昇天されてから、十日後、聖霊が降られました。
このお方は、まさしく偏在されるお方です。つまり、あらゆる場所に、同一時刻において、同時に存在されるということです。
御霊、すなわち聖霊は、主イエス・キリストの霊であられ、そのお方が、主イエスを信じるすべての人の中に住んで下さるのです。
それだからこそ、「主の御霊のあるところには自由がある」のです。明日も同じ箇所からです。》