• 2025年4月13日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所「マタイの福音書27章15節~26節」(新約p.60下段左側)
    27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
    27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
    27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
    27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
    27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
    27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
    27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
    27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
    27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
    27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
    27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
    27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

    ◎メッセージ【主イエスとバラバ・イエス】
    《今週は受難週となります。本来ならば、今日は「シュロの祝日」となり、主イエスが、雌ロバの子ロバに乗って、エルサレムへ入場する場面となります。それから五日目の金曜日の夜中に主イエスは、ゲッセマネの園において、祭司長たちと長老たちによって捕らえられます。
    そして、主イエスは、ユダヤの裁判を二回受けられます。すなわち、大祭司アンナスと大祭司カヤパによる最高法院の裁判です。そこで死刑が宣告され、ローマ総督ポンティオ・ピラトの所に連れて行かれます。
    まずピラトは、個別に事情徴収をします。そして、主イエスがガリラヤ出身であることを知り、その時にエルサレムに来ていたヘロデ・アンティパスの元に送ります。しかし、ヘロデは、主イエスを送り返すのです。ついに群衆の面前において、ピラトによる最終裁判が、アントニア要塞において行なわれました。それが、今日の聖書箇所です。
    さて最終裁判が始まりました。ポンティオ・ピラトは、ローマ法で定められている罪に主イエスが該当しないことを知っていました。また、大祭司や長老たちが、ねたみからイエスを引き渡したことも知っていたのです。そして、何とかして、主イエスを釈放する手段を模索していたのです。
    ところで、ピラトは過越の祭りのたびに、群衆のため、彼らが望む囚人を一人釈放することにしていました。この慣習は、前ローマ総督からの引き継ぎではなく、どうやらピラトが、ユダヤ総督着任時から、ユダヤ人の人気取りの為に始めたものだとも伝えられています。。
    「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」
    「バラバだ。」
    「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」
    「十字架につけろ。」
    「あの人がどんな悪いことをしたのか。」
    「十字架につけろ。」
    ついに、群衆の声がうち勝ったのです。そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために、部下のローマ兵に引き渡します。
    伝承によりますと、バラバは、ローマ支配からの武力による解放を企みた政治犯であって、この事件は当時の人々に、よく知られたものであったそうです。その後、バラバがどうなったのかについては、何も分からないのが現状です。
    ところで、このバラバこそ、私たち一人一人を表わしているのではないでしょうか。本来ならば、自分の犯した罪によって死ぬべき所を、何と代わりに主イエスが十字架に掛かって死んで下さったのです。
    私が何かをしたからではなく、恵みによって、私は刑罰を免れたのです。そればかりではありません。釈放され、自由にされたのです。これが福音なのです。しかも、私たちが知らない遠い昔、すなわち、今から二千年ほど前に、このことが起こなわれたです。
    「十字架」こそが、私たちクリスチャンが、最も誇るべきものなのです。主は、十字架に掛かられ死んで下さいました。しかし、主は三日目によみがえられるのです。》

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