◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月23日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章22節~23節】
4:22「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
◎ショートメッセージ
《ここで、主イエスの言われていることは何であろうか。
一つは、主イエスは、世の光であられる。主の光によって、闇の中に隠れているものは、すべて明るみに出される、ということである。
主イエスは、弟子たちにこう話された。
『おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカの福音書12:2~12:3)』
また主イエスは、こうも言われたのである。
『私はあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」(マタイの福音書12:36)』
未だに、多くの事件が未解決になっている。どんなに、完璧な犯罪であったとしても、犯行におよんだ犯人本人は、自分をごまかすことはできない。
そればかりではない。すべての人の主であられる主イエスは、そのことを全部ご存知であられる。主イエスという、「世の光」の前においては、人は自分を偽ることができない。なぜなら、その人以上に、主イエスは、その人のすべてを知っておられるからである。
人は、都合の悪いことは忘れることができる。しかし、父なる神の御前に、積まれている、すべての人の「行ないの書」には、その人がその一生に行なったことはもちろん、語ったすべての言葉、考えたすべてのこと、思ったすべてのことが、綿密に書き記されている。
そのような、全能の神の御前において、どんな弁明、申し開きが人間にはできるであろうか。
人は、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定められている。この「白い御座の裁き」から、逃れられる者は、誰一人いない。
もう一つは、主イエスは、「たとえ」を用いて、真理を弟子たちに話された。たとえの中に、覆い隠されているものとは、「福音」であり、「神の御国」である。しかし、この時の弟子たちには、まだ、理解できなかったのだ。
やがて主イエスは、十字架に架けられる数時間前に、「たとえ」ではなく、はっきりとご自身が「メシヤ」なることを、弟子たちに宣言される。
『「私は父から出て、世に来ました。もう一度、私は世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、誰もあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネの福音書16:28~16:30)』
残念ながら、今でも多くの人々が、敵である悪魔・悪霊に盲目にされ、主イエスが誰であるのか知ることもなく、また信じることもできない。
それゆえ、主イエスは言われたのである。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
何を聞くのか。主イエスご自身のことばを、である。神のことばを、である。信仰は、聞くことから始まる。あなたは、主イエスのことばを、毎日聞いておられるか。》