◎本日の聖書箇所【ルカの福音書3章1節~6節】(新約聖書p.113上段右側)
3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神の言葉が、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」
◎メッセージ【バプテスマのヨハネの宣教】
《ルカは、3章1節~2節において、主イエスがメシアとして、神の御子として3年半における公生涯において、深く関わることになる、当時の政治的な主要人物を挙げています。
まず始めに登場するのは、皇帝ティベリウスです。主イエスが「カイザルの物はカイザルに」と言われた、その当時の皇帝を指しています。
次に、主イエスをムチ打ち十字式刑に処したローマ総督ポンティオ・ピラト。ローマ帝国がパレスチナに駐在させた5代目の行政長官で、紀元26~36年までこの地位にありました。
そして、当時のユダヤの王である3人の国主を挙げています。ガリラヤとペレヤの国主であったヘロデ・アンティパス。主イエスがエルサレム宮殿で会った唯一のユダヤの王です。 次に、ヘロデヤの前夫でサロメの父ヘロデ・ピリポ。レバノン山脈とアンティ・レバノン山脈の中間に位置するアビレネを管理した国主リサニヤと続き、それから、宗教裁判において主イエスを裁く、二人の大祭司となります。
大祭司カヤパ。ピラトの前任者である総督グラトゥスによって、紀元18年に大祭司に任じられ、36年までその地位にありました。大祭司アンナスの婿であり、主イエスを十字架にかけた張本人です。
最後に、主イエスを最初に尋問したアンナス。紀元6年クレニオによって大祭司に任命され、紀元15年に退位させられるまでその地位にありました。自分の5人の息子と婿であるカヤパが大祭司になったことから、アンナスは退位後も大きな影響力を持っていました。
この頃、バプテスマのヨハネは、伝承では、エッセネ派の修道院にいたと伝えられています。ついに時が満ち、聖霊が神の言葉を告げ知らせ、紀元27年9月もしくは10月に、彼は「悔い改めのバプテスマの宣教」を開始したのです。ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたとあります。
「悔い改める」とは、自分が罪人であることを認めることです。罪が分からなければ、悔い改めることは出来ません。聖霊様によって、罪が示され、その罪を心から悔い、そしてその罪を捨てること、あるいは離れることこそが、真の悔い改めであると思われます。心を入れ替えると言うことであり、その意思表示こそが、水によるバプテスマです。
しかし、人は罪を犯すのです。イスラエルの歴史が背教と回復の繰り返しであったように、人は罪を犯してしまうのです。自分ではどうしようもなく、理性で分かっていても、誘惑に負けてしまい、また罪に走ってしまうのです。
バプテスマのヨハネは、あくまでも道備えであって、救い主ではないのです。罪から解放して下さるお方、罪を赦して下さるお方、すなわち「救い主」が必要であることを、人々に知らせしむるのが、バプテスマのヨハネの役割とも言えるでしょう。
バプテスマのヨハネの後、おそらく6ヵ月後、主イエスが宣教を始められます。主イエスの宣教とは、マルコの福音書によれば、『「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』と言われたように、福音を信じることなのです。福音とは、主イエスご自身のことです。このお方が「良い知らせ」そのものなのです。
最後に、救いについて、もう一度共に考えて見たいと思います。私たちは、イエス様のことを、「主」と呼んでいます。ところで、あなたの主は誰でしょうか。イエス様ですか。それとも自分自身ですか。もし、クリスチャンに祝福がやってこないとしたら、「私の人生はだれの物なのか」と言う問いかけに行き着くのではないでしょうか。
使徒パウロは次ぎのように、証ししています。
『私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。』と。
この世から救い出された私たちは、イエス様を「まことの主」として、残されたこの世での旅路を歩いて行くのです。そして主の弟子として、主の為に、主と共に歩んで行くのです。》