◇◆◇日々のみ言葉
2024年2月25日(日)
◎聖書箇所【マルコの福音書15章6節~7節】
15:6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。
15:7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちと一緒に牢にはいっていた。
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載します。
『15:6 ところで、ピラトは、祭りの度ごとに、群衆の望む囚人をひとりだけ赦免する習慣があった。
15:7 ところが、その時、暴動のさい、人殺しをした暴徒の中にバラバという男がいて、投獄されていた。』
「その祭り」とは、ユダヤ人に取って、最も大切な祭りであって、「過越の祭」のことを指しています。
何時の日から、このような慣習が行なわれるようになったのでしょう。おそらく、ポンテオ・ピラトが、新総督に赴任して以来、初めての「過越の祭」からではないでしょうか。もちろん、その目的はただ一つ。ユダヤ人への人気取りなのです。
さて、「たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちと一緒に牢にはいっていた」と言うわけです。
しかも、このバラバの本名が驚きなのです。何と「イエス」なのです。
オリゲネス(『マタイ福音書注解』)は、マタイ27章16節~17節での「バラバ,イエス」の読み方に注目し、これを古い読みと見なしています。
その場合には、ピラトの申し出は、「バラバ・イエスかナザレのイエスか」ということになり、より具体的に、群衆に迫ることになります。
また、この男は、実は、この日、十字架につけられることになっていたのです。よって、ゴルゴタの丘にかかげられた三本の真ん中の十字架は、極悪人バラバ・イエスの十字架であったことになります。
その罪は、紛れもなく「ローマ帝国反逆罪」でした。主イエスは、真に、バラバ・イエスの身代わりとして、十字架にかけられることになるのです。このバラバこそが、私であり、あなたなのです。》