◎本日の聖書箇所【ルカの福音書4章16節~22節】(新約聖書p.115下段左側)
4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
4:18 「主の霊が私の上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主は私に油を注ぎ、私を遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書の言葉が実現しました。」
4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
◎メッセージ【故郷ナザレの会堂において】
《主イエスは、母マリアと弟と妹たち、そして弟子たちと共に、カナの婚礼からカペナウムにやって来ました。滞在中、主イエスは、カペナウムの会堂における安息日の礼拝において、奇跡を行なわれたのです。その会堂の集会には、当然、弟子たちも、また主の弟たちも出席したに違いないのです。その時、弟たちは、兄である主イエスの御わざを目の当たりに見たのに、なぜ彼らは信仰を持たなかったのでしょうか。すべてには、時があるからでます。
そして、それから主イエスは、母マリアと弟と妹たちと共に、故郷ナザレに戻ります。主イエスは、公生涯において、二度もしくは三度ほど故郷ナザレに赴いています。二度までは福音書に掲載されており、あと一回は、サマリアの道を通った時に、故郷ナザレを経由した可能性があるのです。
さて、公生涯における初めての故郷ナザレへの帰還の場面が、今日の聖書箇所です。
「いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた」とあります。このことから、主イエスは安息日には、聖書を朗読して奨励をしていたことがうかがえます。
この時、「イザヤ書」が与えられます。イザヤ書は、別名「メシア預言書」とも言われていましたので、ユダヤ人が、本当に「メシア」を羨望していたことが分かります。
「主の霊が私の上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主は私に油を注ぎ、私を遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
この箇所は、イザヤ書61章からの引用です。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書の言葉が実現しました。」
この時、主はご自身こそが、メシアであることを、初めて公にされたのです。しかも主が、「ナザレのイエス」と呼ばれる為にも、故郷ナザレにおいて、メシア宣言をされたことは、大いに意味があります。なぜなら、この日から主の三年半における公生涯が始まったからです。
マタイは、このように書き記しています。
『そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。』と。
「人々は皆イエスをほめ、その口から出て来る恵みの言葉に驚いた」とありますが、この後、主は、恵みのメッセージを語られたのではないでしょうか。
そして、彼らは気づくのです。自分たちと同じくナザレに住んでいる「ヨセフの息子」であると言うことを。
主イエスは、本当に「普通の人」として、30才までのほとんどを、このナザレにおいて過ごされたのです。会堂の人々は、彼らが主イエスを見た時、その時の主ご自身に目を留めるのではなく、幼子からやがて少年となり青年となり、大工として働いていた頃の、すなわち過去の主イエスに目を留めたのです。
しかし、今、彼らの前におられるのは、神の御子、救い主イエスなのです。主は、故郷ナザレにおいて、拒絶させられることを承知で、戻って来られたのです。主は、多くの弟子たちを連れて、もう一度ナザレに来られます。再び、故郷ナザレの人々に、良き知らせを告げ、恵みを施すためにです。ここに、主イエスの故郷の人々に対する愛があるのです。
使徒パウロは、次のように私たちに勧めています。
『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。』と。
信仰とは、主イエスへの信仰です。希望とは、私たちはこの方に希望を置くのです。そして、愛とは、主イエス・キリストの十字架によって、示された究極の愛のことです。十字架と復活、これこそが福音であり、良き知らせなのです。》