◇◆◇日々のみ言葉
2024年3月17日(日)
◎聖書箇所【マルコの福音書15章31節~32節】
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王様。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスと一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
◎ショートメッセージ
《現代訳を掲載します。
『15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、イエスをあざ笑って言った。「他の人たちを救っても、自分を救うことはできないのか。
15:32 キリストさん。本当にイスラエルの王様なら、今、十字架から下りて来い。そうしたら、信じてやろう。」また、イエスと一緒に十字架に付けられた者たちも、最初のうちは、同じ様にイエスをののしった。』
「救い主」は、自分を救う必要はないのです。なぜなら、他人を救う為に、その身代わりとして犠牲になる為に来られたからです。
毎年、大祭司は、至聖所において、一才の傷のない子羊を、イスラエルの罪の為に捧げていました。この時だけ大祭司が至聖所に入ることを許されたのです。しかも、手順を少しでも間違えたら、死が待っていました。大祭司は生きている証拠として、動くたびに、衣の鈴の音を響かさせていたのです。
もし、全く音がしなくなったりした場合には、聖所にいる祭司たちが、ロープを引っ張って、大祭司の遺体を引きずり出したと言われています。
主イエス様は、神の子羊として、しかも最後の子羊として、十字架に掛かられたのです。そのお方を、神に仕えている祭司長たちは、あざけったのです。
「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王様。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
何と言う傲慢、そして何と言う冒瀆。神様に仕えていると自称する者たちの、何という愚かさなのでしょうか。
しかし、主イエスは、彼らの罪の為にも十字架に掛かられたのです。彼らの罪をも背負われたのです。そして、私の罪をも、あなたの罪をも背負われたのです。
何と言う恵みと哀れみ。何と言う偉大な愛。そして、主イエスを信じる者に与えられる何と言う光栄。明日も同じ箇所からとなります。》