• 2024年3月17日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書4章22節~30節】(新約聖書p.116上段真中)
    4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
    4:23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
    4:24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。
    4:25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、
    4:26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。
    4:27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
    4:28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、
    4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
    4:30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。

    ◎メッセージ【ナザレの人々の反応】
    《「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書の言葉が実現しました。」
    これは、ご自身こそが、メシアであることを、初めて人々に公にされた瞬間なのです。使徒ヨハネは、「第Ⅰのしるし」において、母マリアが「ぶどう酒がありません」と言われた時に、主イエスが言われた言葉を書き記しています。
    『「女の方、あなたは私と何の関係がありますか。私の時はまだ来ていません。」』
    つまり、この時には、まだ公生涯が始まっていないことを言われたのです。
    「この人はヨセフの子ではないか」
    「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
    主イエスがカペナウムにおいて、奇跡やしるしを行なわれ、また、ナザレの人々は、そのことを知っていることが分かります。
    「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも自分の郷里では歓迎されません。」  この後、主イエスは、エリヤに起こったことと、エリシャを通して行なわれたことの二つの例をあげて、その時代のユダヤの人々の不信仰と、故郷ナザレの人々の不信仰を明らかにされます。
    エリヤの時代では、「三年六ヶ月の間、天が閉じられ」たとありますが、今度は、主イエスの働きを通して、三年六ヶ月の間、天が開かれることを暗示しているのです。
    それに対して、故郷のナザレの人々の反応は、どのようであったのでしょうか。
    「これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ」たとあります。この中には、主の弟たちもいたはずです。おそらく彼らは、兄の態度にはらはらしていたに違いありません。
    そして、何とほぼ全員が立ち上がって、主イエスを、会堂から町の外に追い出し、町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとします。
    この時、主の弟たちは、どうしていたのでしょうか。聖書には書かれてはいませんが、私は、彼らは自分の家に逃げ帰ったと思っています。
    また、もしこの時、弟子たちがお供していたとしたら、どうなっていたのでしょう。おそらくナザレの人々と激しい衝突があったに違いありません。この時の弟子たちは、たったの六人でした。しかし、二回目の故郷ナザレ訪問の時には、百人近い弟子たちをお供につれて来ましたので、故郷の人々は、主イエスに手を出すことは出来なかったのです。
    さて、崖の前にまで追い詰められた主イエスは、不思議な方法でそこから立ち去って行かれます。このことは、「悪魔の第Ⅲの試みで挑発的に求めた御使いの支えがこの時実現し、主イエスのメシア性が決定的に立証された」と、学者たちは述べています。
    さて、なぜ故郷ナザレの人々はこのような反応をしたのでしょうか。それはイザヤに与えられた預言が成就したからです。
    『「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」』
    ここで、私たちに教えられていることは何でしょうか。それは、不信仰からは何も生まれないと言うことなのです。
    私たちは、今も生きておられ、人格を持ち、実在される主イエス・キリストを信じ従う者なのです。》

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