• 日々のみ言葉 2015年9月22日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月22日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章41節】

    5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

    ◎ショートメッセージ

    《ヤイロのひとり娘の生き返らせた主イエスの奇跡のみわざについては、マタイとルカの福音書にも、平行記事が掲載されている。

    『イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。(マタイの福音書9:25)』

    『しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」(マタイの福音書8:54)』

     この3つの記事を、よく比較して見ると、マタイは、主イエスが、「少女(娘)の手を取られた。」ことに注目し、ルカは同じく、娘の手を取ったこと、そして主イエスが、「子どもよ。起きなさい。」と叫んで言われたことを書き記している。

     そして、今私たちが学んでいるマルコの福音書では、子ども(娘)の手を取って、「タリタ、クミ。」と言われたことを書き記している。これはアラム語である。
     当時のユダヤでの国際語は、アラム語とギリシャ語であった。主イエスは、通常はアラム語を話された。

     マルコの福音書を書き記したヨハネ・マルコは、伝承によればペテロの通訳であり、ヘブル語をギリシャ語に翻訳していた。後に、多くのローマ人が、マルコに対し、ペテロの説教を文書にまとめるように求めた。そのため、マルコはこの福音書を執筆したのである。よってギリシャ語にて書かれているのであるが、所々にマルコはアラム語の言葉を掲載している。

    「タリタ、クミ。」
     訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。

     なぜマルコは、あえてこの言葉を掲載してのだろうか。しかも、そのすぐあとに、訳文まで載せているのだ。

     主イエスは、間違いなくこの言葉を言われた。それも叫んで言われた。神の御子としての権威を用いられた。
     実際に、主イエスのこの言葉を聞いた人々は、娘の父と母であるヤイロとその妻、そして3人の使徒たち、すなわちペテロとヤコブとヨハネである。

     ペテロにとって、この言葉があまりにも印象が強かったため、またペテロの心の中に深く刻み込まれたために、この奇蹟の話を人々に語る時には、いつも「タリタ、クミ。」と、あえてこの言葉を用いたのではないだろうか。そしてペテロの通訳者であったマルコは、主イエスのこの言葉の響きを、力強さを、福音書に書き留める必要があると判断し、書き記したのではないだろうか。

     ひとり娘は、確かに死んでいた。間違いなく死んでいた。それはペテロにも、一緒にいたヤコブとヨハネにも、明らかな真実であった。決して眠っているのではなかった。
    その娘の手を主イエスは取られた。そして「タリタ、クミ。」と、主イエスは叫んで言われたのだ。

     ヤイロも妻も、そして3人の使徒たちも、この時、本当に主イエスを信頼し信じてはいなかったのである。両親の心の中には、それこそ絶望とあきらめしかなく、また3人の使徒たちも、もしかしたら心の中で、主イエスをあざ笑う気持ちが、少しはあったかも知れない。それが人間なのである。それが私たちである。
     しかし主イエスは違う。主イエスは、まことの人であって人ではない。主イエスは、創造主なる神なのだ。そのお声は、まさしく「光よ。あれ。」と言われた言葉と、同じ響きと権威と力と強さがあったのだ。

    「タリタ、クミ。」

     私たちは、主イエスが今も生きておられることを、本当に信じているのであろうか。本当に、このお方に信頼し、より頼んでいるのであろうか。
     悪魔や悪霊は、私たちの信仰を奪おうと躍起になっている。私たちは霊的戦いの最前線に送られている。それは演習ではなく、実戦なのだ。生きるか死ぬかなのである。主は「命」であられる。しかし悪魔や悪霊は、今も「死」という武器を用いようとしてくる。
     使徒パウロは言う。

    『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(第Ⅱテモテへの手紙1:10)』

     私たちも、起き上がる時が来ている。》

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