◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月21日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書5章38節~40節】
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
◎ショートメッセージ
『ヤイロには、十二歳になるひとり娘がいた。
当時のカペナウムのユダヤ人の会堂であるシナゴークは、今も遺跡が残されているが、それはとても立派な建物であり、カペナウムが誇れるほどの見事なものであった。
この会堂管理者であるヤイロは、ユダヤ人から大変に尊敬されていた立派な人物であり、また裕福な者であった。とすれば、多くの使用人がいたはずである。
ここで、「人々」と書かれている単語は、男性名詞であり、取り乱し、大声で泣いていたのは、その愛らしいヤイロのひとり娘を、心から愛する男性の使用人たちであったと思われる。もちろん女性の使用人も大勢いたに違いない。彼女たちも、声を上げて泣いていたと思われる。
ある注解書には、職業としての「泣き女」がいて、家族の代わりに大声で泣いていた、ともあるが、それでは男性名詞ではなく、女性名詞が使用されているはずだと、尾山令仁氏は、そう注解に書き記している。
主イエスが、ヤイロの家に到着した時は、ひとり娘が息を引き取ってから、まだ間もない時であったと思われる。
その姿をご覧になって主イエスは、
「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言われたのだ。
しかし人々は、主イエスをあざ笑ったのである。それはなぜか。彼らは、自分たちの主人のひとり娘が死ぬのを見たからである。もしかしたら最後まで医者が側にいたのかも知れない。その医者が、首を横に何回も振った時に、ひとり娘は、息を引き取ったのだ。その側にいたヤイロの妻は、娘の母親は、その時、娘のなきがらにひれ伏して、声も出せずに泣いたであろう。
「眠っているのです。」主イエスのこの言葉は、冗談にも聞こえたのだ。
「死」は終わりではない。
多くの人々は、自分の心臓が止まった瞬間に、もうすべてが無くなってしまうと信じている。つまり私たち人間は「無」から生まれ、また「無」に戻って行くと信じている。
しかし聖書は、そう教えてはいない。私たち人間は、神に似た者として創造された。神は霊なるお方である。私たちも、「霊的存在」なのである。たとえこの肉体は活動を止めようとも、私たちの本当の存在である「霊」は生きており、そして不滅なのだ。この「霊」は、その人の人格を決定している「魂」を持っている。人間という存在は、魂を持った霊が、その人の肉体の中に住んでいるという存在なのである。
主イエスがよみがえられたように、やがてすべての死んだ人々が、よみがえる時が来ようとしている。それまでは眠った状態であることを、主イエスは預言していると言える。
主イエスは、人々を外に追いやった。そしてヤイロとその妻、また「ご自分の供の者たち」、すなわちシモン・ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネの3人を連れて、娘の眠っている所に入って行かれたのである。
この時点までは、まだ主イエスは誰をも、生き返らせてはいない。主は、その公生涯において、3人の者を生き返らせた。ヤイロの娘、やもめのひとり息子、そしてクライマックスは、愛するラザロである。
さて、この場面を良く考えて見よう。
ヤイロに抱えられながら、泣きながら入って行く妻。ヤイロは、まだ娘が死んだことを、その目では見てはいない。しかし妻は、母親は、娘が息を引き取った時を知っている。そして、「主イエス様は、何をなされるのか」と、興味本心と共に、半信半疑の3人の弟子たちである。
この時の彼らの心の中には、何があったのか。
彼らは、誰も主イエスが、よみがえらせることが出来ることを、信じてはいなかったのである。またそんなことは、思いつかなかった、と言っても良い。弟子たちは、「眠っているのなら、大丈夫だろう。」くらいしか考えられなかったのである。
聖書は、決して「おとぎ話」ではない。真実が書かれた書物である。聖書には、一言一句誤り無き神の言葉である。この後、ヤイロとその妻、そして3人の弟子たちは、主イエスの大いなる奇跡を見ることとなる。
そして、その時に、彼らの心の中には、どんな変化が起きることとなるのか、そのことを、明日、共に考えて見たい。》