• 日々のみ言葉 2015年9月23日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月23日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章42節~43節】

    5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
    5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

    ◎ショートメッセージ
    《『そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。) (マルコの福音書5:41)』

     いよいよ、ヤイロのひとり娘のよみがえりの奇蹟のクライマックスシーンである。主イエスは、死んだ娘の手を取って、アラム語で「タリタ、クミ。」と言われた。

     当時の公用語は、アラム語とギリシャ語であった。しかしユダヤ人はヘブル語を使っていた。もちろん主イエスはアラム語もヘブル語も話されたはずである。そして私は、確信を持って言いたい。主イエスはギリシャ語も話されたと。もちろん憶測の域ではあるが。

     なぜこのように思うのか。それは主イエスに、しもべのいやしを願い出たローマ軍の百人隊長との話し合いにおいて。
     またポンテオ・ピラトの裁判における主とピラトとの問答。それは、アラム語よりもヘブル語よりも、彼らの母国語であるギリシャ語のほうが、より良く意思が、はっきり伝わるからだ。
     確かに、駐屯しているローマ兵の百人隊長も、また総督であるピラトも、その任務地であるエルサレムにおいて、ユダヤ語は堪能であったとか、あるいは彼らとの間には通訳者がいたとか、とも考えられないこともないが。
     
     さて、主イエスは大声で叫ばれた。「タリタ、クミ。」と。
    その言葉に反応し、その瞬間に、少女の目が開かれ、そして主イエスの手を強く握りしめ、すぐさま起き上がったのだ。そして何と歩き始めたのである。

     その時のヤイロと妻、そしてペテロとヤコブとヨハネの反応はどうであったのか。

    『彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。』

     これが人間である。本来ならば、娘が生き返ったのだから、両親は感激のあまり喜び踊り、そして主イエスに多大なる感謝を述べ続け、あるいは夫婦して娘と抱き合い、主イエスに抱きついてもおかしくないはずである。しかし彼らは、あっけにとられ、顔はこわばり、そして口は大きく開き、目は生き返ったばかりの娘に釘付けになったのだ。

     なぜなら、誰も主イエスが、その死んだ娘を生き返らせることが出来るとは、思っていなかったからである。そんなことが出来るとは、誰も信じてはいなかった。だから驚いたのである。

     それだからと言って、どうしてヤイロとその妻、また3人の弟子たちの信仰を責めることが出来ようか。なぜなら私たちも、彼らと何も変わらない信仰の持ち主だからである。つまり祈りが聞き届けられた時、「感謝」よりも「驚愕」が先んずるからである。
    そんな小さな信仰の持ち主が、私たちではないとは、どうして言えようか。

     本当に主イエスを神の御子、そして命の主、創造主なるお方と信じているのなら、主が私たちの願いと祈りを聞いてくださった時、その答えが与えられた時には、まず感謝と喜びが押し寄せてくるはずである。そんな強い信仰を、ぜひ持ちたいものだ。

     この後、主イエスは、このことを誰にも言わないように命じられる。なぜか。それは、これ以上の混乱を引き起こさないためである。また主イエスのもとに、死人を生き返らせてほしいと言う人々が殺到することを防ぐためでもある。

     そして主イエスは、娘に食事をさせるように言われる。つまりこの時点においてさえ、その父と母であるヤイロとその妻も、娘が生き返ったことが、信じることができないでいたからだ。生きている者なら食事をする。

     主イエスに言われて、その後、家族で食事の席に着き、娘が食物を口に入れて食べた時に、幽霊でもなく、本当に自分の娘が生きていることを、二人は実感したに違いない。

     主イエスがよみがえられて、弟子たちにその姿を現わされた時、主は弟子たちにこう言われた。

    『「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。私の手や私の足を見なさい。まさしく私です。私にさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。私は持っています。」
     イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。それでも、彼らは、嬉しさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(ルカの福音書24:35~24:43)』

     ここからもわかるように、死人が生き返ることは、大変、驚くべことであった。もちろん今もそれは変わらない。

     生きているのなら、当然食事をするはずである。主イエスは、ご自身が生きておられることを、はっきりと示すために、焼いた魚を一切れ、彼らの見ている前で、それを取って召し上がられた。ここに主イエスの愛のある配慮が感じられる。

     ヤイロの娘は、確かに主イエスによって生き返った。しかしそれは、生き返ったことであり、主イエスのよみがえりとは、全く次元の異なることである。つまり、ヤイロの娘は、やがてその生涯を全うして、再び死んだはずである。いや死んだのだ。やもめのひとり息子の青年も。そしてラザロも、その使命を全うして再び死んだ。

     しかし主イエスは、復活の新しい体を持ってよみがえられたのである。その体は朽ち行くものではなく、永遠の使用に耐えうるものである。

     この復活の新しい体が、私たちにも与えられる。もはや老いも無く、病気も無く、不具合も無い。もちろん死さえも無い。すべてにおいて、完璧なよみがえりの体が与えられるのだ。これこそが、主イエスの与えてくださる「永遠の命」なのである。ハレルヤ!》

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