◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月25日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章2節~3節】
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
◎ショートメッセージ
《『イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。 (マルコの福音書6:1)』
昨日の聖書箇所6:1と、本日の最初の聖書箇所6:2との間に、マルコは、少なくとも半日以上の時間の経過のあることを示している。ユダヤ暦では、一日の始まりは日没後、すなわち今で言うならば、午後6時から始まる。しかし旅人が移動するのは、やはり明るい昼であり、日が沈む前に宿に入るのが普通である。では、この時、主イエスはどこに宿泊されたのか。
この質問は、あまりにたわいのない質問である。十二使徒を始め、多くの弟子たちを連れた主イエスは、ご自身の大工の家に戻られたのである。もちろんそこには、母マリヤ、そしてヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の弟たち、少なくとも2人以上の妹たちが、喜んで長男であり兄である主イエスを出迎え、もてなしたと思われる。
主イエスは、公生涯において2度ほど、故郷ナザレに出向いている。昨日のメッセージにおいて、おもに最初のナザレ訪問について書かせていただいたが、1回目の時でさえ、主イエスがカペナウムにて行なわれた大いなる奇蹟や悪霊追い出しについて、もうガリラヤ中に広がっていたのである。
今回の2回目の訪問の時には、すでにガリラヤだけでなく、デカポリス地方、そしてサマリヤ地方、特に首都エルサレムまで、主イエスの名声はとどろいていた。
そんな主イエスである兄を、母マリヤを始め、弟たちや妹たちも誇らしげに出迎えたことと思われる。しかも今回は、十二人以上の弟子たちを伴っての凱旋である。
もしかしたら、母マリヤの両親、父ヨセフの両親や多くの親戚の者たちも、主イエスの家に集まって来たかも知れない。そして夜遅くまで宴会や、会話が続いたことと思われる。その時、主イエスは、ご自身の家族や親戚の者たちに、一体何を語られたのであろうか。私は、「神の国は近づいている。それゆえ悔い改めなさい。」と、「福音」すなわち良き知らせを、語ったに相違ない、と思っている。
そして、朝が来た。もしかしたら、主イエスの一行が、ナザレについたのは、安息日の数日前であったかも知れない。そうすると、主は多くの時間を持つこととなり、ご自身の家族や親戚の者たちに、時間をかけてゆっくりと、証をされたとしても、別に驚くことはない。
さて、安息日になった。この時は、多くの人々がナザレにあるユダヤ人会堂にやって来た。主イエスの評判を聞いた多くの人々が、つめかけたはずだ。
『安息日になった時、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。(マルコの福音書6:2前半)』
なぜ人々は驚いたのであろうか。それは、権威ある教えであったからである。
一回目のナザレの帰省の時のことを、ルカは、綿密に書き記している。
『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。(ルカの福音書4:16~4:17)』
主イエスは、すでにラビであられた。主イエスは、いつものとおり会堂にはいり、朗読しようとして立ったのだ。すると会堂管理人が、イザヤ書の巻物を手渡したのである。もし、主がナザレのシナゴークにおいて、その奉仕をしていなかったのなら、どうして会堂管理人が、非常に大切な巻物の聖書を渡すだろうか。
ナザレの人々は、いつ頃からであろうか。安息日ごとに主イエスの教えを聞いていたのである。もちろんその奉仕は、主イエスだけではなく他のラビの当番もあったに違いない。しかし確実なことは、主イエスが、公生涯において、二度、たった二度、いや二度ほどあれば十分かも知れないが、ご自身の故郷のシナゴークにてメッセージを語られたことである。
その時、ナザレの人々は、本当に驚いた。今まで自分たちが知っていた大工ヨセフの息子、マリヤの長男が、かつて語ったことのない、聞いたことのない力強く、かつ権威と恵みに溢れたメッセージを語り出したからである。
そればかりではない。そこに力強いみわざがなされたのだ。奇蹟が起こったのである。具体的に何が起こったのか、マルコは書き留めていないが、そこにいた人の証言で、とてつもないことが起こったことが分かる。
「この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」
それにもかかわらずナザレの人々は、主イエスを「メシヤ」「キリスト」として信じることができなかったのである。なぜか。
「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
そうなのだ。彼らは、幼い頃からのイエスを良く知っていたのだ。大工の父ヨセフを、物心ついた頃から手伝うイエスを。弟たちや妹たちの面倒を見る良き兄イエスを。母マリヤを助ける親孝行のイエスを。彼らは、人間イエスを良く知っていた。
しかし今、彼らの目の前にいるお方は、かつてのイエスではない。確かに、主は三十才になる前までは、バプテスマのヨハネに洗礼を受け、御霊が鳩のように降って来られる前までは、普通の人として生きて来られた。
しかしその後、ピラトによって十字架に架けられるまでの3年半は、普通の人ではなく、「メシヤ」として「キリスト」として「神の御子」として、生きられるのである。
だが、彼らの目には、自分たちが良く知っているイエスが目に写ったのである。もちろんそれもイエスである。しかし、それは過去なのだ。今は全く違う方なのだ。
この事は、救われる前の私と、救われた後の私の場合と同じことである。鏡に映る顔は、ほぼ同じではあるが、中身は全く違う。私たちの霊は刷新されたのである。生まれ変わったのだ。
私たちは、過去に生きてはならない。私たちは、主イエスの流された尊い血潮によって、過去は、すべて洗い流された存在なのである。私たちは、はるか先の主イエスの十字架を見上げつつ、今に生きるべきなのである。》