• 日々のみ言葉  2015年9月26日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月26日(土)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章4節~5節】

    6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
    6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

    ◎ショートメッセージ
    《『イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。
    「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコの福音書6:1~6:3)』

     主イエスは、公生涯において2度ほど、故郷ナザレに出向いている。最初は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒野にて四十日四十夜の悪魔の試みを受け、勝利して間もなくのことであった。

     しかし、この時には、主イエスは、突然家族に、エルサレムの方に行って来ると言って出かけたかも知れないのだ。あるいは、大工の仕事としての依頼が、エルサレム近くの場所においてあったのかも知れない。そのあたりのことを聖書には、詳しく書かれてはいない。
     しかし、主イエスは、バプテスマのヨハネに洗礼を受けるまでは、ナザレの1人の大工として生きていたのである。
     それゆえ、公生涯における最初のナザレの帰省は、家族たちにしてみれば、「一体今までどこに行っていたのか。何をしていたのか。」とも言うべきことであっただろう。「仕事をほったらかして何をやっていたのか。」という具合にである。
     その時までは、家族に取っては長兄であり、未亡人の母マリヤを支える一家の大黒柱のイエスでしか、なかったのである。

     おそらく、主イエスは、ご自分の家族に「どこで何をして来たのか。また何が起こったのか。」を話したはずである。そしてご自分が、どのような者であるのか、またこれから、どのようなことをするのか、そのことについても、家族に話したはずだ。

     なぜなら、すでに父ヨセフは、天に召されていたからである。母マリヤ、そして4人の弟たち、2人以上の妹たちを、実際に養って来たのはイエスであったはずだ。もちろん主イエスは、やがて自分の本来の働きにかかわる時がやって来ることを、父なる神から聞いていたはずである。

     よって、主イエスが、ご自身の家族のことを、全くほったらかしにはしないはずである。おそらく大工の仕事を、4人の弟たちに教えていたはずだ。もしかしたら、すでにすぐ下の弟ヤコブは、大工として独立出来るまで、腕を上げていたかも知れない。そうだとすれば、主イエスがナザレの家を離れて、公生涯の働きに集中したとしても、弟ヤコブが、母マリヤと、そして残りの3人の弟たち、2人以上の妹たちを養ってくれると主は信頼していたのではないだろうか。

     またこれも憶測でしかないが、弟ユダも、兄イエスの志をしっかりと受け止めていたような気がする。
     その証拠となりうるのかは定かではないが、新約聖書に、何とエルサレム教会の最初の牧師となった弟ヤコブの手紙、そしてユダの手紙が残されているからである。

     しかし、この時の家族の話し合いでは、主イエスのことを、誰も信じなかったのだ。

    そして安息日になったのである。それからのことについて、ルカがその福音書に詳しく書き記している。

    『それから、イエスはいつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
    「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
     イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
     みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。
     イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」(ルカの福音書4:16~4:24)』

     そして2回目の郷里への帰省である。しかし今回も、家族の者たちは主を信じることが出来なかった。それゆえ主イエスはこのように言われたのである。
    「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

     そして、その後にマルコはこのように書き記している。
    『それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。』

     この箇所から、私たちは何の真理を学ぶべきか。
     この時には、主イエスが、不信仰な人々の中では、何一つ力あるわざを行なうことができなかったということである。
     なぜか。それは、様々な奇蹟が起こる為には、あるいは起こされる為には、主イエスに対する「信仰」が大いに関係しているということである。

     不信仰な人々の間で、たとえ大きな奇蹟が成されたとしても、不信仰な人々は、決して信じようとはしない。主に、神に栄光を帰すようなことはしない。それゆえ、そのような人々の中において、主イエスは、あえて力あるわざを行なわなかったのである。
     しかし、主の愛と哀れみによって、かすかな信仰を持っていた少数の病人はいやされた。

     私たちは不信仰になってはならない。もし不信仰であったとしたら、主イエスを信頼出来ないとしたら、この世の人々とは、何の変わりもない。それこそ、信仰を持っている、と言えること自体が、無意味であると言っても良い。

     預言者イザヤは言う。『彼に信頼する者は、決して恥を見ない。』

     そしてヘブル人への手紙の著者は言う。

    『「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:37~10:39)』

    『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)』》

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