◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月27日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章6節】
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
◎ショートメッセージ
《『イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。
「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。(マルコの福音書6:1~6:5 )』
昨日まで、マルコの福音書6章1節から5節までを詳しく学んで来たが、ここには結論が書かれている。
主イエスは、公生涯において2回、ご自分の故郷であるナザレに帰省された。それはご自身が生まれ育った町であり、父ヨセフそして母マリヤとヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの弟たち、2人以上の妹たちと共に、30年間暮らした愛する町であったからである。そこには、多くの親戚の者たち、そして知人や友人がいたはずだ。
私たちが救われた時には、『「良き知らせ」である福音を、真っ先に知らせたい。あるいは、主イエスを信じ受け入れて救われ、「永遠のいのち」を手にして欲しい。』と思う人たちは、間違いなく家族であるはずだ。そして友人や知人たちである。
主イエスも同じである。私たちと同じように、家族を思い、親戚縁者を思い、友人や知人たちを思い、ご自分を「信じて欲しい」と願ったからこそ、ナザレに来たのである。
しかし、その結論は、『主イエスは、彼らの不信仰に驚かれた。』ということである。
なぜか。どうしてか。なぜナザレの人々は、イエスを「メシヤ」として「キリスト」として、受け入れることが出来なかったのか。
安息日に、ナザレの会堂において、力あるわざが何かなされたはずである。数人の病人がいやされたはずである。その場面を、しっかりと目撃したはずなのに。なぜ信じることが出来ないのか。
その原因は、二つ考えられる。
一つは、「頑なな心」である。頑固な心である。自分が学んで来たこと、経験して来たこと。知識や常識を通して、自分が正しいと主張し、人の意見を受け入れない心のことである。
人間、年を取れば、頑固になる。そのような「頑なな心」の持ち主には、決して主イエスのみ言葉は、入って行きようもなく、どんな奇蹟が行なわれたとしても、それを神のみわざとは、信じることが出来ない。
それゆえ、主イエスはこう言われるのだ。
『「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(ルカの福音書18:16~18:17)』
私たちは、「信仰」は幼子のようであるべきである。幼子は、その父と母を何の疑いも無く信じ切っている。
「私たちの神様は、本当に良いお方である。」と尾山令仁先生はいつも言われる。
このお方を、幼子のように、疑うことなく、いつも心から信じる者でありたい。
もう一つは、パウロがこう言う場合である。
『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(第Ⅱコリント人への手紙4:3~4:4)』
私たちの敵である悪魔や悪霊によって、その人々の心が閉ざされている場合である。
今でも、学校の「理科」あるいは「生物」の授業では、「進化論」が教えられている。かつての私も、教えられたように信じていたのであるが、今は創造論が真実であることを知っている。地球の年齢は、約40億年と言われているが、真実は約6,000年である。
しかし多くの人々は、生命が偶然に生まれ、そしてアメーバのような単体生物から進化してきたという、あまりにも愚かすぎる空論を押しつけられ、そして信じているのである。そうではない。すべての生物は、父なる神が、主イエスと聖霊様と共に、創造されたのである。そして創造の御わざの最後に、最高傑作である人間を創造されたのだ。
ある人は、創世記第1章の第1節によって救われたと言う。
『初めに、神が天と地を創造された。』
このみ言葉を読んだ時に、その人は、一瞬に真理に導かれたと言う。
それから、イエスは近くの村々を教えて回られた。
この後、二度と主イエスは、故郷ナザレに戻ることはなかった。しかし私は思う。主はよみがえられた後、ご自分の家族の者たちに、生きておられるご自身を現わされたと。 もしかしたら親戚の者たちにも。また父ヨセフと母マリヤの両方の祖父母にも。と私は思う。なぜならご自身が人として生まれ育った町ナザレを、そこに住む人々を、どうして主は捨て去ることが出来るであろうか。
愛の方であられる主イエス。『このお方は、まことに恵みと哀れみに満ちておられた。』と使徒ヨハネは、福音書の最初の方に書き記している。
預言者ヨナの時代。かつてニネベさえ惜しんだ神が、どうして、ご自分の故郷ナザレを、顧みないことがあるだろうか。》